乱雑な室内が、赤色灯の揺らめきに彩られる。
こんなはずはない。私がいない。
私は傍らの肉の両肩をつかみ、私に正対させた。潔く開いていた頭半分を、かぱりと乱暴に閉める。昔ながらのタワシの如きボサボサの黒髪が顔を隠している。私はかさつく両手でその髪を左右にぐいと開いた。その顔は――。
「こ、こ、これ、私の顔だ……!」
「さっきそうだと言ったんだが」
男は今にも耳掃除でも始めそうなほど、退屈しているようだ。
「お、お前がやったのか!?」
「冗談を言うな」
男は落ち着き払って右手をひらひらと振った。
「誰がそんな面倒なことをするか」
「だが、これは私の、私の身体だと言っただろ!」
「それは間違いないな」
この男はどうかしている。そして、私の今の身体もどうにかしていた。再び鏡を覗き見れば、そこにある顔は旧き良きセルロイドの人形のようにつやつやで丸く、目は不気味に円形で、鼻と口はまるで赤ん坊だ。髪の毛はナイロンの糸を乱暴に突き刺したかのようにお粗末なもので、しかも、皮膚の塗装はところどころポロポロと剥げていた。水色とも灰色とも言えない下地の色が、染みか痣のようにあちこちに浮かんで毛羽立っている。
「わ、私を元に戻せ。こんなのでは私は」
「明日から困るか?」
私はわけがわからず、それでも頷いた。そうだ、私はきっと冷静なのだ。
しかし、男は足を組み替え、顎に手をやって天井を見上げて黙ってしまった。たっぷり三分間、私は男を睨み、男は天井を眺め、肉は私を見つめていた。
「今一番の問題は」
男は私を見ながら肩を竦めた。
「お前が自分でその姿になったにも関わらず、その大した価値もない口唇と舌で俺にクレームをつけていることだ」
「バカな!」
自分でこの姿に? いやいや、誰が望んでこんな姿になるものか。
「お前の前にある肉、それはお前の錯覚だよ」
「錯覚だって!? こんなにハッキリしているものが。それにこれは、私の姿だ。私の顔だ」
「と、言われましても。俺には良く見えないんだな、これが」
男はゆっくりと立ち上がった。そのまま私の前まで歩いてくる。
「こいつはな、お前の感覚の産物だ。お前は今、人形になっている」
それはわかる。ありえないことだが、実際にそうなっている。それに良く見れば指や腕、足に至るまで、明らかに可動式のパーツだ。いわゆる球体関節人形……なのだろうか? しかし、取り付けが悪かったらしく、指や右の足首あたりに大きな違和感がある。
「だから、お前は現状――おおかた何かしら生き方に困っているのだろうが――お前はその理由を探した。その結果、ここに肉を見た」
男は手刀で、私の肉を叩いた。が、男の手は空気でも切ったかのようだった。私の肉は形を変えず、男の手もまた、抵抗を受けていない。
「だが、何故、何故、私はこんな姿になっているんだ」
このアリサマは、まるで大切なクライアントに袖にされてしまった時の営業担当者のようだ。私は男の足に縋り付こうとでもしたのだろうが、流麗な動きでかわされてしまった。
「そりゃぁ、お前が人形になりたいと思ったからだ」
それはさっき聞いた。でも、こんな姿には。
「お前は常々そう言っていたじゃないか」
男は深く息を吸い込んだ。バカにするような視線は変わらない。
「毎日決められたことを苦痛なく決められた通りにやって、疲れだやる気だでミスをすることも前提に無い。社会に組み込まれた俺たちは、所詮はただのシステムでしかない。人間性なんてあるだけ無駄で、周囲の連中でさえそうであるかなんて怪しいものだ。社会だの会社だのといったシステムはそれ自体が生き物で、俺たちは所詮はその中の細胞に過ぎない。だから、自動的で良いんだよ。人間関係さえ道具に過ぎないから、適当な循環と条件分岐さえ仕組んでやれば人格なんて要らない。良好な人間関係なんて、結果のフォローのために作られた錯覚だからな……だったか?」
その言葉には覚えがあった。それは確かに私の声で再生されていた。
「ひとつ助言してやろう」
男は私の目の前に屈み込んだ。視線の高さが同じになる。
「お前がその姿で明日を迎え、会社に出向いたとしても」
男は立ち上がり、乱雑に積まれた箱の類をどけて、服を取り出した。真新しいスーツのようだ。
「この服さえちゃんと着ていれば、誰も何とも思いはしないさ」
男はニヤリと口の端を吊り上げた。
私は何も言えない。口のスリットが錆付いていたから。
男は続ける。
「そして誰も何も言いやしないさ」
私はまた、鏡の中の自分を覗き込んだ。男はそんな私を一瞥して、そしてソファに戻ってどっかりと足を組み、そして言った。
「安心して生きるがいい」
鏡の中にいる私は、私をぼんやりと眺めていた。
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