漸近科学という名の、得られないものを得られるものであるかのように、或いは、触れられないものをさも触れられるものであるかのようにして、研究する科学がある。そしてまた、如何にしてその理論を具象によって証明するのかを思考するのに延々と頭と腕を揺らし続ける研究者たちがいる。彼らは間違いなくエリートであり天才であり、哲学の狭間にこの世の理を観測する賢者であり――しかし同時に、誰にも理解されることのない孤独な人間たちでもある。彼らは何かに漸近しているのだ、間違いなく。
その研究所で働く中で抱え込んだ不安と不満を糧にして、私は日々を生き延びている。どんな天才の集まりにでも、私のような凡人は不可欠なのだ。天才を天才で居続けさせているのは、私のような凡人たちの存在なのだ。そしてまた、私たち凡人を凡人たらしめているのが、一層救いようのないあれらであるのと同じように。
悶々とした、しかし本心では何らの変化をも望まない繰り返しの中。そんな日々。しかしある日、私はそれを目撃してしまう。いたぶられ、死にかけた何かをだ。
そして、私はそれを救い出して、逃げた。
私は一体全体、何から逃げているというのだろうか。私は今、自分が何を握り締めているのかすら理解できていない。ぼんやりとした現実にぼんやりとした理性がぼんやりとした判断を下した。そのくらいに、さながら汚れた食用油の中に閉じ込められているのではないかというような、そんな漠然とした不安が心の中で対流を起こす。
がむしゃらに逃げ出した先で待っていたのは、白衣に眼鏡をかけた、横柄で不思議な男だった。それが何であるか――明確すぎて掴めない。現実と現実の、非現実的な組み合わせによって生まれる不安感。不気味な逼塞感。渇いたグロテスク、サイケデリックなシュールレアリズム。その男を形容するならば、たとえばそんな具合だった。というより、そんなふうにゴテゴテとして重たい語彙を用いなければ、この男を表現することはできそうにもなく、よしんばそうであったとしても、それは男にまったく近くない。
しかし斯くして私を匿ったのは、他でもないこの男で、この男が案内したのは不安になるほどに立方体な建物だった。外観と容積が不整合な、完璧すぎて不安定な、すぅっと蒸発してしまいそうなコンクリート。窓やドアが整然と並び、それでいてもしかしたらちぐはぐかもしれない。まるで私の見ている世界のすべてが錯視の絡繰に満ち満ちてでもいるかのように、自分の認識能力への不安を煽られる。いわば意味不明な秩序ある混沌。
私はその立方体の建物の中で、ついにそれと接触するのだが――。
しかしたぶん、私はその事実に気付いたりはしないだろう。いや、できないだろう。少しずつ魚のように換わっていく彼らが、知らずにそうなっていくように。今の私がこうして変化していっているように。
白衣の男のあのレンズごしの黒硝子のような目玉だけは、そんな私にも、やけに印象に残っている。そんなことを思いながら、私は今、真っ白な空間でくるくると横たわっている。
この世界は何かに漸近していっている。
そして何かが、この世界の闇に、潜み棲んでいる。
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