びみ……うさぎや?
何の看板だろう? いや、そもそも……ここは店なんだろうか。
考えながら、私は恐る恐るドアチャイムのボタンを押そうとした。が、物理的に押せない。スイッチの中で何かが引っかかっているみたいだ。
仕方がないので、力加減に注意しながらドアを叩いた。
「すみませーん! あの――」
不意にガチャっとドアが開く。まるで私がドアを叩くのを待っていたかのような素早さだった。
「あの、わたし」
「入れ」
ドアを開けていたのは、白衣に眼鏡の痩せた男だった。相当に痩せているが、病気の類の気配は感じない。だが、その雰囲気は得体が知れない。「名状し難い」という表現がこれほど似合う男もいない。眼鏡の奥の目の中には感情は見えない。ゾッとするほどに無機質な印象だった。この男はさっきの女の子の親だろうか? いや、そうに違いない。
「入れと言っている」
乱暴な口調で男は言った。各種の引け目もあって、私はその言葉に従った。私の後ろでドアが閉まる。妙に重たい音だった。
「肘と、足首か。それは結構」
「な……」
男は、私が痛めた場所を指差しながら頷いた。
「あの、さっきの女の子は」
「女の子?」
男は怪訝な顔をしながら、顎をしゃくって私を奥へと導いた。私は靴を脱いで、「おじゃまします」とそこに入った。足首がじんじんと痛んだが、ぐっと我慢した。
「あの……」
「タバコは自分の部屋で吸うんだな」
やっぱりこの男は、私のアレを見ていたんだ。
それにしても、なんて広い家なんだろうと思った。外から見たときは、そんなに広そうではなかったのに。所狭しと色んなものが無節操に置かれている。鳥の置物、クマのぬいぐるみと藁人形セット、得体の知れないキャラクターの抱き枕、アニメキャラのカード、昆虫図鑑に殺虫剤、ピンホールカメラ、薄型テレビ、球体関節人形のような妙に生々しいもの、エトセトラエトセトラ……。
「あの、さっきの子は」
「つくづく人間というのは利己的なものだな。自分本位でしか物事を考えない」
男は一番奥にあるソファに、どっかりと座った。足まで組んでいる。私は両手を前にして、しょんぼりとその前に立っている。足の痛みは既に激痛の域に達していたが、それを言い出せる雰囲気ではなかった。背中や太腿を嫌な汗が伝っていく。ストッキングを脱ぎ捨てたい衝動に駆られるが、出来る筈も無い。
「私、タバコであの子」
「文句を言ったり腹を立てたりは、どんなクズでも一人前にするようになるが、それに加えて反省というものが自分の保身への欲求からしか生まれなくなるヤツもいる。実にうんざりするな。本来は反省しなきゃならん状況でも、その状況をして、その状況のせいにするようなくだらん論理を論理だと信じている破綻した、自称オトナという有象無象が多すぎる」
あの子は大丈夫だろうか。救急車は呼ばなくて良いんだろうか。それにあんな悲鳴を上げたのに、今は泣き声も聞こえない。大丈夫なんだろうか。
「疲れて腹が立ったからと、路上でタバコに火をつけて、悲鳴に驚いて転んだ。ここでお前に直接関係のない因果は驚いたということくらいだが、それでさえ悲鳴を上げさせたのはお前なのだから、やはり全てがお前本位のできごとだ」
「あのっ! あの子は大丈夫なんですか! 救急車とか」
「あまつさえ、あの悲鳴を聞きながら、まずはバッグの中身を拾った。そして近所の様子を見回した。いろんな逡巡があったにせよ、最終的には痛みがあったから逃げるのを諦めた」
「火傷とか、あの、まさか目とか」
「エゴの次は保身で、その次は諦めたと見せかけて自己満足、というヤツか?」
男は眼鏡の位置を直した。
その目つきが怖い。睨まれているわけではないが、心の底まで抉られるような、そんな目だった。真っ暗な深い穴を覗いているかのような、そんな得体の知れない恐怖を覚える。そしてまた、私はこの男の抱いている感情を一切理解できない。本質に圧倒的な差があるように感じた。この何年も――或いは生まれてこの方――実感したことのない感覚だった。
「それで」
男は座ったまま腕を組んだ。そして妙な問を発した。
「お前は何の用があってここにいるんだ?」
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