啾啾ト哭ク赤イ布 第壱話

美味兎屋・本文

 私は悔しかった。そして途方に暮れていた。

 誰に怒りをぶつける事も、愚痴を言う事もできない。ただ、白いままの自分の手を握り締めるだけだ。私は何も出来なかった。意気地なしと言われても仕方なかった。それでも、何とかしたいと思っていても、本当に自由が利かなかった。それに、私が何かをしたとして、あの状況が何か変わっただろうか。変わったとしても、より悪い方向でしかなかったと、私は思う。

 一流と言われる大学を出ても、こんな状況を変えることはできやしない。今をときめく某科学研究所に入所し、先端技術研究の主要メンバーに抜擢された。他人が見れば羨むようなこの経歴すら、これっぽっちの役にも立ちやしない。やりたい事を我慢し続けて、やっと大学を出ても、得られたものは何もなかった。

 何も、だ。

 漸近科学――それが今、私が研究している科学だ。どんなに頑張ったところで接触できない。近付いている実感はあっても、紙一重の差で手が届かない。そうとわかっていながらも、その実体を見ようともがき、あがき続けるだけの学問だ。そうとわかっていながらも、その行為の依存性から抜け出せない。いつかは掴めるかもしれない、それに最初に触れるのはもしかしたら自分なのかもしれない。そんな夢とすら呼ぶことの出来ない薄弱な妄想に囚われ、逃げられない。そんな中毒性のある学問なのだ、漸近科学とは。

 こいつはまるで私の人生そのものじゃないか。

 ああ、だめだ。

 私は首を振って、ため息をついた。

 何をどう考えても、自分への言い訳にしかならない。自分の臆病さを弁護するだけだ。あの時、助けられる可能性があったのは私だけだったのだ。そして今、いるのは、自分が決めた行動の結果に過ぎないのだ。

 私は泣く事もできなかった。この夜中、誰も見ていないとは言え、道路の真ん中で泣くことはできなかった。こんな私にだってプライドはあるらしい。それが滑稽だった。

 白々しく光っているコンビニの前を早足で通り過ぎ、すれ違う車から顔を背ける。

 私は自分の手の中にあるを見ることが出来なかった。握り締めることも、手のひらで気配を探ることもできなかった。見た瞬間に、感じた瞬間に、それはより一層おぞましいものになっているかもしれない、そんな恐怖からだ。

 生暖かい感触が掌から肘へ、肘から肩へ、そしてようやっと脳へと、湿気のようにずるずると音を立ててい上がってくる。感覚が曖昧で、時間の進みも速くなったり遅くなったりする。それは度の合わない眼鏡をかけたまま、ボートに何時間も乗って本を読んでいる時のような感覚だ。

 もうじき家に辿り着ける。家までの距離に反比例するように、私は歩く速度を上げた。スピードは上がったはずなのに、何故か景色はのろのろと行き過ぎる。苛々した。思い通りにいかないこの景色に、私はとんでもなく苛ついた。

 遅々として進まない時間の中で、私は嫌な気配を感じた。後ろからが追ってくる。残っていた獲物をいたぶり、あるいは殺してから、私をのろのろと追いかけてきたのだろう。あの腫れぼったい目、だらしのない口許、意味も分からずにコトバのような何かを乱暴に吐き出す舌。

 私は急いだ。自分の家に直行するべきか否かを考える。その間にも声は近付いてくる。このままではあいつらに家を知られてしまう。そうなったら終わりだ。このまま闇の中に溶け込んでしまいたい気分だった。この意気地の無い私を飲み込んでみろよ――心の中で闇を挑発した。

 その時――。

「おいお前」

 闇が私に呼びかけた。

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