男に導かれた先はだだっ広い空間だった。一般的には居間というのだろうが、それにしては異様なほどに広かった。外観からは想像もつかない。例えて言うなら、民家だと思って入ったのに、床面積はヴェルサイユ宮殿――というのはいくらなんでも大袈裟だが、とにかくそのくらいの心理的ギャップがあった。
「何を驚く。別に不思議ではないだろう」
男は部屋の一番奥のソファにどっかりと腰を下ろし、足を組んだ。ものすごく偉そうな態度ではあったが、私はヘラヘラと笑うことを選択した。なんて無難なサラリーマンだ──私はまた、そのように自分を分析した。誰にプレゼンをするわけでもないが、こうして何となく自己分析をする癖がついてしまっているようだった。
だが、やはりこの違和感に対しては物申しておいたほうがいいかなと、少しドキドキしながら口に出す。
「で、でも、ふ、不思議ですよ、だって」
「外で見た大きさと、どう考えても合わない?」
「はい」
私は短く肯定する。「はい」は私が最も上手に扱える単語だ。男は肩を竦めて、右の眉を上げた。男は言う。
「合わなくはない」
「え、でも、この建物は、立方体……」
「立方体?」
男はアハハと声を立てて笑った。しかし、目は私をじぃと見つめたままだ。
「お前は正面からしかこの匣を見てないのに、何故立方体だと認知ったのだ」
ハッとした。そうだ、私はこの建物を正面からしか見ていない。なのに、立方体だと思った。思い込んだ。
男は面白そうに私を見ていた。私は肩を落として俯いた。まるで上司に叱られた時のリアクションだ──再び、私はそう自身の状態を分析した。誰かにプレゼンをするわけでもないのに。きっとこれが私の在り様なのだろう。
「錯覚だ。お前らの感覚なんてのは、押し並べて、単なる錯覚に過ぎない。認識に整合性を与えようとする為にでっち上げられる、ただの辻褄合わせの言葉遊びだ。感覚とは、説明のつかない抽象的な概念であり、そしてまた、抽象的でいてくれないと困るのだ。感覚というのは、異常な柔軟さが必要とされる調整役なのだからな。撓むことも伸びることも許されない撥条、それがお前らの言う、そしてお前たちがせいぜい認識できる感覚のようなものの正体だ」
はて? この男は私に何の講釈をしようというのだろう。
「他人と自分の関係、他人による認識、他人へ向けられる意識。それら、お前らがもっともらしく吹聴するそれらへの認識とて、何一つ具体的ではないし、ましてや主観を切り替えることなどは絶対にできない。三人称の感覚、二人称の意識、そういうものを意識せよ――誰かがそうと言ったところで、それは本人、つまり一人称による計算の産物に過ぎん。都合の良い定数に基づいて計算され、あまつさえ変数にも都合の良い値が収まる、そんな定理も公理もあったものではない計算の結果を、もっともらしく論って、しかつめらしく掲げてみせる。一人称以上の二人称も、ましてや三人称も存在しない。それが唯一無二にして絶対の約束事だ」
「はぁ……」
「お前はそれを知っていた。だから、お前は自分以外の主体を否定した。お前は彼らにとっては変数としてさえ存在していない。しかし、お前はそれでは何かと困るから、彼らそれぞれに変数という認識の器を用意した。しかし」
「返り値は基本的に無」
「そうだ」
男は首肯した。そうだ、私はプログラマか何かだった気がする。いや、それともただの趣味の領域だっただろうか。いかんせん判然としない。モヤがかかっていて、よく見えない。
「尤も、会社の上司やらと折り合いをつけるために、ある程度の条件分岐は備えていたようだがな」
男は左右の指を器用に組んだ。ソファの肘掛に肘を付け、鼻の前にその指を持ってくる。メガネのレンズが鋭利に光る。
「座ったらどうだ」
男は私の右斜め前のソファを指差した。二人がけのソファで、大きな荷物が半分を占拠している。男は低い声で高圧的に言った。
「其処に座ったらどうだ」
ソファの前に出て、私はぎょっとした。これは肉だ。しかも、解体された肉だ。血や臭いは無いが、中身がすっぽりと抜き取られた、人間の身体だ。
「こ、これ……」
歯がぶつかりあって金属的な悲鳴を上げている。
「ああ、それは中身がまだ出来てないのだ」
解体ではなく、組み立て中だったのか。しかし、不気味な事に変わりは無い。内臓がすっぽり、そして半分がパカッと開いた頭蓋骨の中身には何も無い。骨や眼球やらはあったが、それらはまるで新品のようであって、リアリティは感じなかった。最初にゾッとしたのは、その佇まいにリアルな人間のシルエットを想起させられたからだ。
私は逡巡の末、その肉の隣に腰を下ろした。ちらりと横目で見ると、眼球の裏側には数本のカラフルなケーブルが伸びており、その先には接続端子のようなものが見えた。八ピンだろうか。これはリアルな人形なのか。
そうだよ、人間の肉だとしたら、こんな常温で放置していては数時間と待たずに腐ってしまうはずだ。
そう思うと、ただ不気味なだけだった。先程までの臓腑を底冷えさせるような濡れた嫌悪感は薄くなった。
「ふん、それは論理的な根拠を見つけた安心感か?」
男は揶揄うように言う。
「ケーブルやら何やらで、それは人間の肉などでは無いということが判然ったつもりになって安心したか」
私は確かに、この非常識な状況を説明し得る理由を探していた。眼球にケーブルなんて、ある筈が無いじゃないか。
「だが、それが。そこにある肉が」
男は傍にあった四角い手鏡を投げ渡してきた。
私はそれを危うい所で受け取り、顔を覗き込んだ。
「お前の肉だったら、どうかな?」
男の発した音波が私に届くや否や、私は悲鳴を上げた。
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