寝癖ナオシ帽子 第壱話

美味兎屋・本文

 ああもう、腹が立つ。

 また残業だ。あと何分かで明日じゃないか。

 つい半年前は、二十代で管理職になれたことを誇りに思っていた。自分の仕事が認められた。能力が認められた、と。がむしゃらに頑張ってきたことは無駄じゃなかったんだと。

 それが滑稽だ。何て滑稽なんだ。ついた部下は営業部から「引き抜かれた」若手で、社会人経験三年の、自分の寝癖に気付きもしない使えないヤツだ。ハキハキと話もできないし、その目はいつもおどおどしている。かといって、デスクワークに強いのかというと、これもまたテンでダメだ。一言で言って、使えない。でも、そこでちょっと強く注意すれば、すぐに欠勤する。そして、人事の連中からは、パワーハラスメントが何だと注意をされ、部長からも呼び出しを受けてしまうという始末だ。

 使えないヤツを私の下に回してきたのは部長のクセに、そして面倒なんて一つも見ないクセに、あいつは良識ぶったことばかり言う。しかも、あの部長だって、セクハラしてるじゃないか。女のクセにとか、ヒステリーはやめろだとか! なんで私だけそんなことを言われなきゃならないのか。残業したって、社会通念に照らしてまったくそぐわない理由を並べ立てて残業手当も出さないし! こんな寒い夜に一人で会社でコンビニ弁当食べて、とぼとぼと帰り道、そんな毎日だ。家に帰っても、どうせお風呂に入って寝るだけ。化粧を落とす時間も惜しい! 一分も一秒ももったいない。全てが私の人生を無駄に削っていくのだ。

 ああ、もう! 腹立つ!

 私はコンビニでタバコを一つ買って、外のゴミ箱に包装のラップを叩き込む。むしゃくしゃするからそうしたのに、ゴミ箱に入るのを危機感もなくふわふわと拒否するそいつらに、ますます腹が立った。舌打ちしながらショルダーバッグを乱暴に肩にかけなおす。

 あんまりむしゃくしゃしたので、帰り道でついタバコをくわえて火をつけた。普段は歩きタバコなんて、誓ってしない。どうせ夜中だから誰もいないし、と気が緩んでいたのは事実だ。

 あら?

 通り過ぎようとした瞬間、その建物の玄関の明かりがついた。閉め切られた玄関フード内の薄汚れた蛍光灯が、目障りな点滅をしていた。その中に、薄汚れた赤い看板が見える。字が書かれていたが、よく読めない。

 なんて書いてあるんだろう?

 思わず覗き込んだ時、タバコを持った右手の位置が下がった。

 その時、私の右手のあたりから、この世のものとは思えない絶叫が響いた。驚いた私は転倒し、ショルダーバッグの中身をぶちまけながら、左の肘をしたたかにコンクリートに打ち付けた。ヒールを履いていたせいで、左足首もじんじんと痛い。

 悲鳴はなおも続いていたが、私が顔を上げたときには、あの不気味な建物の扉が閉まるところだった。玄関フードは半分開いていた。今の悲鳴の主はあそこに入っていったに違いない。

 私はまず周囲を見回した。そしてほとんど無意識にバッグの中身をそそくさと拾い集める。今の悲鳴だと近所の住民が出てくるかもしれない。警察が来るかもしれない。心臓がバクバク言っている。

 でも、今の悲鳴は女の子の悲鳴のようだった。転ぶ直前にちらっと見えた顔は、目の大きい、かわいらしい服を着た女の子だった気がする。でも、わからない。どこかで見たことがある気はした。が、そんなことはありえない。あの年代の子は知らない。

 どうしよう、今の悲鳴。

 タバコが当たったのかしら?

 いや、こうしてはいられない。あの家から誰かが出てくるかもしれない。諦めて私から行ったほうがいいだろうか。いや、でも、今なら誰も見ていない。私がなにかしたという証拠なんて誰にも見つけられやしないに違いない。逃げれば気付かれないかもしれない。

 しかし、足が痛かった。立っているだけでもつらい。これではこの場を急いで離れるのは難しい。なら、やっぱり私から行ったほうがいいに違いない。

 驚いたショックで落としたタバコは、道路に転がっていた。火は消えているようだ。これで物証は一応なくなったと言えるんだろうけど。

 私は痛みをこらえながら、半開きの玄関フードをガラガラと全開まで開けた。看板の文字がぐぃっと迫ってくるような錯覚を覚えた。

次話

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