寝癖ナオシ帽子 第肆話

美味兎屋・本文

承前

 バリ……?

 私はその音を捕えた我が耳と、目の前の光景を捕えている我が目の正当性を疑った。頭の中で現象が現実にならない。認知が追いつかない。

 男は「どうやら」とソファで足を組み替えながら言う。

「またエゴが出たようだな、お前。面倒なヤツだ」

 男の声にはまるで動きがない。直線的な、三流役者の台詞セリフ回しのようだった。私の目の前にあるそれは、間違いなく紛れもなく疑いようもなく異常事態を示しているし、男にもそれがそうだとわかっているはずだった。なのに、男はまったく平静で、まるでこの事態に動転している私の方がおかしいのではないかと思えてしまうほどだった。

 だがしかし。

 私は右手にある帽子を見る。帽子にはが張り付いていた。ぱっちりと開いた目蓋まぶたの奥に床が見えた。うっすらと埃でコーティングされている乾いた床が、ぽたりぽたりと濡れていく。帽子に張り付いた顔の裏側から、水飴のように粘度の高い汁がしたたっている。私の右手が震えている。どろっとした雫が散弾のように床に模様を描く。

「ねぇ、ねぇ」

 無邪気な声が聞こえる。私は視線を動かせない。そこにいるのは――。

「ぼくのおかお、かえして」

 赤黒い顔の子ども。表情筋がぐにぐにと蠢いている。唇のない口の中に白い歯が見えた。顔面の中心にある大きな窪みの奥がジクジクと湿っている。目蓋の剥がされた目は、きらきらと私を直視していた。ただし、右目だけ。左目があるべき位置は、溶けた蝋のようにぐにぐにとうごめいていた。

「ぼく、ひだりめが、なくなっちゃった。とけちゃったんだ。そしたらね、おかおも燃えたの。ぼくのあたらしいおかお、いまおねえさんがはがしちゃったの」

 足の力がすぅと抜けた。くじいた痛みが冷たく突き刺さる。そのまま私は、お尻をしたたかに床に打ち付けてしまった。猛烈な痛みに襲われて思わず涙が出た。

 しかし、そんな私の前に、その子が立っていた。丸い右目が私を見ている。

「ぼくはおかおがほしいんだ。おかおが、ひつようなんだ。おかおが。おかおなくなっちゃったから、おかおがほしいんだ。ねぇ、おかお、おかお、そのおかおでいいから、ねぇ、おかおをちょうだい、おかおをちょうだいおかおをちょうだいおかおをちょうだいおかおを――」
「あ、あの、あのっ……!」

 顎が震えている。舌が凍りついている。その子の姿の奥で、男は立ち上がる。が、助けに来てくれるわけでもない。私なんかに関心はない――そう言わんばかりに、部屋の中のものを物色でもするかのように手にとっては眺めていた。私は助けを求めようと手を伸ばす。助けてと言おうと口を開く。

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