その声に、思わず足が止まった。ぴたりと。私の足が。
背中の毛穴全てが、ワイシャツ内の湿度を何倍にも増加させる。硬直する身体を強引に捻る。結論から言えば、そこにいたのは闇ではなかった。通り過ぎたばかりの一戸建ての玄関先に座り込んでいる、奇怪な風体の男に声をかけられたのだ。奇怪な、というのは、夜中のこの時間に白衣を着て、玄関前に「ただ座りこんでいる」ためだ。タバコを吸いに外に出てきたという様子でもない。ただ、居たのだ。
男は細いフレームの眼鏡の奥から、私と私の手の中にあるものを交互に見遣った。そして生気も感情も見えない視線を私の眉間に止め、立ち上がりながら低い声で言った。
「そのまま帰ったら食われるぞ」
「え……」
私はぽかんと口を開いた……と、思う。
「それにお前、それをどうするつもりだ」
「どうって……」
確かに、家に持ち帰ったところでどうにもできるわけではない。緩慢な時の中、無意識に眠気を駆逐しながら苦しむだけだ。明日、研究所に行けるかもわからない。
「これだからお前らは困る。意気地もない、後先もない。近づいたと思えば離れていく」
男は近付いてくる声の方向を鋭く睨みつけ、玄関のドアを開けた。
「時間を潰すがいい」
選択肢は無かった。
私は男の家の中に駆け足で上がりこんだ。玄関フードの中、ドアの脇には、真っ赤な看板が乱暴に置いてあった。
そこにはささくれた墨の色で、『美味兎屋』と書いてあった。
びみうさぎや……?
おかしな名前だった。私の手の中に居るものを考えると、その名前は奇妙に歪んでいる。
「ビミウサギヤ、ではない、ミミトヤ、だ」
上下も強弱も無い口調で言いながら、男は奥まった一室へと私を通した。その動作は乱雑で、粗暴でもあった。その大きな部屋に入って、私は初めて疑問に思った。
「え、なんで」
私の考えていたことがわかる?
「ここに来る連中は、あの四文字をこぞってそう読む」
男は横柄に言い、雑多に積み上げられたガラクタの奥で何かを探し始めた。
「ガラクタではない、商品だ。恩人に対して失礼な奴だ」
「あんた、何で僕が何を言う前に答えるんだ」
「どいつもこいつもそう言うから先手を取っただけだ」
男は「よし」と言いながら、工具箱のようなものを取り出した。
「自分を客観視してると思い込んで、その実、自ら超えられない壁を作っている。そこに気付かないから、お前たちはいつまでも超えて行けないと言うのだ」
そして、私の手の中にあるものをひょいと奪い取った。男の言うことは、何かを知っているようでもあったし、その他一般に対する愚痴であるようにも思えた。いずれにせよ私の研究内容には守秘義務があるから、強く問い質すわけにもいかない。
男は私を一瞥し、口を歪めた。
「随分やってくれたな、これは」
「……助かるのか?」
男は治療をしてくれるようだった。
「俺は、お前たちの言うヨグなんとかとは違う。何でもかんでもをカクノゴトクにできるわけじゃない」
男の言葉は、私の感覚の斜め上を飛んでいく。しかし、男の手際は素人目にではあるが極めて良く、着実に治療が進んでいく。半分飛び出した目玉や、裂けた腹に折れた手足まで、白い布の奥で元通りになっていくのがわかった。
元通りに――。
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