啾啾ト哭ク赤イ布 第参話

美味兎屋・本文

承前

 待つこと一分、いや、十分。あるいはもっと、かもしれない。よくわからない。

 男の手の中には、赤い布の塊があった。ぴっちりと巻かれた白かった布が、今や赤く染まっていったのだ。申し訳程度に開いている穴からは黒い鼻のようなものが覗き、布の隙間からは、舌のようなものが何枚もはみ出ていた。

「さてこれでいい」
「これで……って布を巻きなおしただけじゃないですか」
「問題があるか?」

 男は私にそれをさっと手渡すと、奥のソファにどっかりと腰をおろした。一仕事終わったといわんばかりのくつろぎようだ。

「布を巻いたし、飛び出していたものは元に戻した。そのうちそれは鳴くぞ」

 男がそう言った途端に、私の手の中のそれがにゃぁと鳴いた。

 それの元の形は確かににゃぁと鳴いて然るべきものだったかもしれない。

 しかし、私の手の中にある、真っ赤な布の奥のモノがにゃぁと鳴くのはあまりに奇怪だ。

 赤い布の奥で、かつて飛び出していた綺麗な青いものが拉(ひしゃ)げていた。

 私は息を吐けない。目を逸らすこともできない。

 その青いゼリーのような球体はひしゃげながら、ぐんにゃりと私を写していた。私のシルエットは影になって、その中で黒々と脈絡なく曲がっている。布越しでもそれがわかった。瞬(まばた)きができない。まるで度の合わない眼鏡をかけて金魚鉢の中の水草を眺めているかのように、その濁った青い目のようなものに写りこむもの全てが歪んでいた。

 それがもう一度にゃぁと鳴く。その声は長く残り、私の関節という関節に刺さり込んだ。

「どうした?」

 男の疑問文は語尾が下がっている。

「お前が助けたいと思ったモノだぞ、それは」

 男は頬杖を付いて、口の端を吊り上げて私を見ている。眼鏡の奥の眼光が刺身包丁のように鋭かった。

 思えば、何もかもが奇怪だ。さっき外で私を追いかけてきていた声はすぐ後ろで聞こえたのに、姿はなかった。私がこのモノを拾ったのは、誰も居ない道端だ。そういえば、今私がいるこの建物は、こんなところにあっただろうか。この部屋は、建物の割には広すぎた。そしてどういうわけか、この男は、私のココロを読んでいる。

 私は何もわからない。私には何も理解できていない。

 目の前には啾啾(シュウシュウ)と音を立てる布がいる。男の考えていることも、この布の奥にあるモノのことも、私がどこでそれを拾ってきたのかも、あの歪(イビツ)な連中のその姿も、確かに目にしているはずなのに、何も思い出せない。

 極端に度の合わない眼鏡をかけて見てきた風景を、一所懸命に説明しようとしたって、そこに見えるのは漠然とした色の配置だけだ――今の私は、まさにその状態だった。

 男は私をじっと見ていたが、前触れも無く退屈そうな表情をして訊いてきた。

「それは何と鳴いた? ん?」

 今度は語尾が気持ち上がっている。

「何とって……鳴いたでしょう、にゃぁって」

 聞こえなかったはずは無い。しかし、男は大袈裟に肩を竦めるだけだ。私は腹が立った。男は眼鏡の位置を直しながら、抑揚のない声で確認してくる。

「本当に、そいつはにゃぁと鳴いたのか。それが、にゃぁとでも」
「だってほら、元々この子は」

 くぅん、と手の中の赤いモノが鳴いた。

 くぅん、と鳴いた。もう一度鳴いた。確かに鳴いた。

「それはにゃぁと鳴くのか」
「いや、くぅんと鳴いた」

 私は呆(ほう)けてそう答えた。それは確かににゃぁと鳴いていた。そう鳴いていたのだ。

 しかし、今はくぅんと鳴いている。そしてもう一度それは鳴いた。

「くぅんと鳴いた……」

 くぅんとにゃぁは共存しない。ヒトツの固体からは出てこない二種類の音だ。

「それはくぅんと鳴いたのか。今度はくぅんだと言うのだな」

 男が言い、私は頷こうとした。

 その時、それはほーほけきょと鳴いた。それはそれは流暢なほーほけきょである。

 私は悲鳴を上げてそれを落とした。音もなく落着したそれは、埃のうっすらと積もった床でのたくった。私は腰を抜かす。視点が下がり、床の埃がつぶさに見えた。中折れブリッジのような体勢の私に向かって、それがにゃぁ、にゃぁ、にゃぁと鳴きながら這い寄ってくる。

 私は尻を引き摺りながら後退したが、背中が書棚に当たってしまった。もうこれ以上は無理だ。さがれない。じわりとした埃が雪のように肩に積もった。埃の溶け込んだ部屋の空気が、目障りに輝く。

 それはくぅんと鳴きながら、カサリカサリと床を這う。頭の中が赤と黒と閃光に塗りつぶされる。未だかつてこんな不気味な経験をしたことはない。それは遂に私に到達し、私の腹に飛び乗った。重さのないそれは、そしてそのまま私の顔にまで至る。ほーほけ……

「ふむ。その辺でいいだろう」

 私の顔に今まさに黒く湿った鼻をつけようとしているそれを、男はひょいと取り上げた。鉄の臭いが私の顔の辺りにじんわりと広がっていく。意思とはまったく無関係にこみ上げる嘔吐の前兆に、私は口元を抑える。赤い布は男に摘み上げられながら、私の方を歪んだ瞳でじぃっと見ている。

「そ、それはなんなんだよ! そんなんじゃなかった、それはそんなんじゃなかった」
「じゃぁ、なんだったというんだ」

 男はその赤いモノを掌の上に乗せている。それはおとなしくそこに座っていた。

「そんなんじゃないとは言うが、これは多分ずっと以前からこんなものだった」

 男は言ったが、私はもう一度、無駄とは思いながら訊いた。

「それはなんなんだ」

 男は眼鏡のレンズを埃っぽく光らせながら、口を絵に描いたようなにやりというカタチにした。

「そうだな」

 男はその赤いモノの顔の端を少し摘み上げながら、それを観察した。そして、その『顔』を私に向けた。

「お前じゃないのか? 強いて言えば」

 赤い布が解(ほど)けた。

 私の視界が赤い布に覆われて消えた。

啾啾ト哭ク赤イ布・終

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