頭がクラクラする。意識が朦朧として、まるで湿った蒟蒻の上を歩いているようだ。着ているものは草臥れて、靴もいいだけ擦り切れていた。古びただけならまだ貫禄があるとも言えようが、冷静に我が身を振り返ってみれば、羽織っているコートのあちこちは破れ、まるで集団暴行でも受けた後のように破れ、裂け、釦の類はひとつも残っていなかった。
──集団暴行?
ああ。そうだ。
そうなのだ。集団暴行だったのだ。
あの時、突然後ろから押さえられ、暗いところに押し込まれた。誰がやったのか、何人がやったのか、それはわからない。覚えているのは、真っ暗だったこと、気がついたらゴミの山に埋まっていた事、それだけだ。得体の知れない虫が何匹も、服の内に外にとちょろちょろとしていた。つんとした悪臭は潰してしまった虫の体液由来なのか、それとも周囲のゴミから立ち上るそれなのか。いずれにしても気持ちの悪いものだ。
全身が痛い。指先は擦り切れて、まるで目の粗い紙鑢でもかけられたかのようだった。赤黒い擦り切れは、血が乾いた痕だろうか。髪の毛もバリバリとしていて、とても見せられたものではないだろう。顔もカサカサしていて、擦るとまるで消しゴムの滓のようなものがボロボロと落ちた。擦れば擦るだけ、落ちた。
幸い、今は夜中だ。ごく稀に車が通り過ぎていくが、誰も私なんかには関心を払わない。私がどんな格好をしていたとしても、誰も私なんかには興味を示さないだろう。あっ、誰かいる――その程度。記憶にすら残りはしない。そんなものだ。
だいたいに於いて「誰かが私を見ている」なんて思うのは妄想だ。誰も私なんか見てはいない。見たとしても数秒後には彼らの中の私の姿は、極わずかな特徴しか描かれていないカオナシになっている。そのカオナシは確かに私を基にしていたとしても、到底、私なんかではないのだ。私なんて単なる契機にすぎない。
――はて?
私は何でそんなことを考えたのだろう。そういえば、こうなる前の私は何をしていたんだっけ。至極普通のサラリーマンだったろうか。思い出せないが、スーツらしい服装からすると、その可能性はあるだろう。
身体が重い。関節という関節がギコギシギコギシと音を立てているようだ。油が足りない。目に痛みがあって、まるで意思とは無関係に上下運動をしているようでもあった。クラクラと世界が揺れる。まるで誰かが悪戯で揺らす、濡れた蒟蒻の上に立っているかのように。私はたまらず足を止め、古びた電柱に片手をついた。息をするたびに、キィキィという妙な音が混入して、私はとても不安になった。
そういえば。
そういえば、私は何処に向かって歩いているんだ。目的地でもあるというのだろうか。いつまでに、どこへ、なんのために? 知らなければ不自然なのに、私はそのことにそれほど不安も不満も抱いていない。客観的に考えてとても不自然だったが、他ならぬ私自身がそう思っているのだから、この現状を肯定する他にない。
電柱から手を離せないまま、私は今歩いてきた道を思い出そうと試みる。確かに私は曲がったり横断歩道を渡ったりしてきているようだ。となれば、私は無意識に何処かへ向かっているのだとしか思えない。身体が勝手にそちらへ歩いていくのだ。およそ私自身の意志や意識とは無関係に。
頭の内側にチリっとした痛みを感じて視線を上げると、ギリギリ二車線の道路を渡った先に、奇妙なほど正確な立方体が見えた。普通の住宅街の中にある立方体。精緻な芸術とも言い得る立方体だったが、周囲との関係を考えると、大層不気味でもある。この建物の存在の意味が、私には判然らない。
だが、私の身体はどうやら其処を目指していた。危うい均衡を保ちながら、私は道路を渡りきる。客観的に見る私の姿は、さながら泥酔した幼児のようだ。立方体に食い込んでいる玄関フードが、目の前にあった。玄関フードとは、普通は建物から張り出しているものだ。ということは建築の段階から、これをひっくるめてデザインしていたのだろう。
玄関フードのスライドドアは開けられていた。その奥には普通のドアがあり、おそらくは……というより普通は玄関に通じている。ドアの傍らには、薄汚れた真っ赤な看板らしいものが置いてあった。その赤の中に、美・味・兎・屋という絶妙に物騒な組み合わせの四文字が黒々と踊っている。
これはなんだ?
ビミウサギヤと読むのだろうか?
私は一秒から一分程度、その場で真剣に考えた。
「ミミトヤだ。入れ」
一切の兆候無しにドアが開き、白衣にメガネといった装束の男が現れた。私は驚いて尻餅をついてしまった。傍から見れば、玄関のドアに弾き出されたように見えるだろう。
「大事に扱え、壊れたら面倒だ」
「あ、はい、すみません」
反射的に謝る私。謝ってしまう私。意味もわからないのに、何が誤っているのかもわからないままに謝っていた。これが私という人物の性格なのだろう。卑屈だ。なんて卑屈なんだ。
私はまるで他人事のように、私を分析していた。いつものように。
コメント