しかし男はそれを見下ろしながら、またもや肩を竦めた。そしてあろうことか私を更に挑発する。
「食べ物を粗末にするとは。罰が当たるぞ」
「うるせぇ! ばかにしやがって!」
「それは正しいな。俺はお前をバカだと思っている」
伸ばした私の手をひらりと避ける。何度も掴みかかったが、どういうわけなのか、かすりもしない。
「見られてもいないのに見られたと思いこんで、挙句に喧嘩を吹っ掛けて馬鹿にされる。いや、むしろ最初から馬鹿だということだな。そしてそんなことに体力を使うから、ますます馬鹿になる。まったくもって嘆かわしい悪循環だな。まるでお前の大好きな書類仕事の無限ループのようだ」
息が切れる。
男はもしかすると何かの武術でもやっていたのだろうか。私からのアクションは、まるで映画の中のザコキャラのそれのように、全くそいつに通用しない。
「お前は一体何を見ているんだ。さっきの母子だって、あんな時間に出歩いていた理由をお前は勘違いしただろう。どころか、睨み付けもした。違うか?」
何でそんなことまで知っているんだ、こいつは!
と、言おうとしたが、息が上がっていて声が出ない。
「あの母子は、これから酷く哀しい事実と、現実と、対面しなきゃならん。なのに、お前に睨み付けられた。なるほどお前は本当に酷いヤツだ」
「なんで、お前は、そんなこと、知ってるんだ」
「おや?」
男は腕を組んで、右の眉をくいっと上げた。
「このことは頭ごなしには否定しないんだな」
そういえば。いや。
「それは、タクシーの運転手に、病院へって」
「それだけか?」
「……それだけだが」
「それだけで、母子の事情は理解できたわけだ」
男は目を細めた。笑っているのだろうか。
「なら、俺もそろそろ意地悪を止めてやろうじゃないか。きっとそれで、お前は、多分恐らく、納得するんじゃないかな」
回りくどいヤツだ。
私は息を整えながら、男を凝視した。私の目は、男のその口が何を言い出すのか――その瞬間を捉えたがっているかのようだった。男は口角を上げながら、私を指差した。
「俺は、お前の背中に乗ってる、それを見ていたんだ」
背中?
思わず私は自分の右肩と左肩を順に見た。
何もいない。
いるはずがない。
「そうか、お前には見えないのか」
男は真面目な顔で顎に手を当てた。所謂、「考えているポーズ」だ。
「幽霊でもいるってのか」
「幽霊?」
男はゆっくりと顔を上げる。そしてまた、眉間に皺を寄せてうつむき、呟いた。
「幽霊、か」
そのまま、くるりと背中を向ける。
「幽霊、ねぇ……」
ガラガラと、その立方体の建物の玄関フードを開ける。
「おい……?」
私が呼びかけると、男は一度、その玄関フードの中で振り返った。そして、ニィッと、哂った。
背筋がゾッとする。全身に鳥肌が立った。鳥肌が鳥肌を誘発し、私の口の中にすら例のツブツブが出来たのではないかと感じた。不愉快が私の眼球を乾燥させる。
「おい……!」
玄関フードの扉がぴしゃりと閉められる。そのガラスの向こうでは、男はまだ私を見つめていた。いや、私の後ろを見つめていた。じっと。瞬きさえしない。男は表情も変えない。
男は玄関フードの中で何か言ったが、ガラスに遮られて聞こえない。私はそこに駆け寄ろうとしたが、足に絡みついたあのコンビニのビニール袋にひっかかり、バランスを失って転倒した。強かに膝を打って悶える私の前に、ひしゃげたカップラーメンが中身を振りまきながら転がってきた。グロテスクな形の麺が容器の中に垣間見える。足首に絡まったままのビニール袋が、もう一方の端を側溝の蓋に挟みこんで私を捕まえていた。
慌てて顔を上げた時には、男は玄関の中に入っていこうとしていた。顔だけがこっちを見ている。眼鏡越しの視線には、何の感情もうかがうことができなかった。
ゾクッとさせられた。
人間の姿なのに、そんなものじゃない。
私はそう感じた。
男はまたもニヤリと口元だけを歪め、今度は完全に私への興味を失った。
玄関がバタンと妙に大きな音を立てて閉まった。
薄ぼんやりと照らされた玄関フードの中に、小汚い赤っぽい看板が立て掛けられていた。
何と読めばいいのか判断に苦しむが、そこには「美味兎屋」という、どう読んだら良いのか悩める四文字が、これでもかと言わんばかりに陰鬱に自己主張をしているのが見えた。
その時、タイヤを軋ませながら一台の車が曲がってきて、歩道に乗り上げたのが視界の端に見えた。
ヘッドライトが迫ってくる。
私は呆然と男の消えた玄関を見た。ドアが半分開いていて、男が顔を覗かせていた。
そして言う。玄関フードのガラスと、車のエンジン音が男の声を掻き消していたが、その口はたぶんこう言っていた。
「ここは、ミミトヤ、だ」
循環想像リアクション・終
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