LC-05-001:待ち伏せ

ロストサイクル・本文

 六月に入った頃になってようやく、僕は退院した。六月四日――久しぶりの学校である。その間、タケコさんも夏山ルリカも、もちろん母さんも見舞いに来てくれた。僕の傷は思いのほか重傷だったようで、一歩間違えば死んでいてもおかしくはなかったのだそうだ。しかし幸いにして左手は動かせるし、目下の所、痛みがある以外は生活に支障はなかった。

「まったく酷い目に遭ったよね、受験生なのに」

 僕のベッドに転がりながら、夏山ルリカが言った。その手にはスマホがあり、勉強している僕の傍らで漫画を読んでいる。スカートが一部めくれて、危うく下着が見えそうになっているのだが、僕はそれを平常心でやり過ごす。

 そんな僕と夏山ルリカの間には、タケコさんが立っている。タケコさんは相変わらずの豊満ボディで、その大きな胸は夏山ルリカの姿をすっぽりと覆い隠してしまうほどだ。

「スマホがくなっちゃったおかげで、勉強は進んだけどね」

 傷が完全に治ったら新調しようということになっているが、ぶっちゃけると受験が終わるまでなくても良いかなぁなんて思っていたりもする。どうせ僕と連絡する必要があるのはタケコさんと夏山ルリカくらいなもので、クラスLINEとかそういう類のものも夏山ルリカ経由で知ればいいだけの話で。しかも、夏山ルリカとは毎日顔を合わせているし、塾すらやめた彼女は毎日うちに入り浸っているのだ。夏山ルリカとは一緒に勉強もするのだが、僕と過ごす時間の半分以上はこうして僕のベッドで漫画を読んでいる。それでどうして僕より成績が良いのか、それは激しく謎である。

「あ、七時ね。ちょうどいいわ」

 タケコさんは左手にしたごつい腕時計を確認しながら言った。毎回思うのだけど、どうしてこんなにごつくて目立つ腕時計をしているというのに、僕はいつも違和感を覚えないのだろう。今のタケコさんは薄いピンク色の起毛ニットと、スキニーな感じのやや桃色がかったベージュのパンツを身に着けている。とてもセクシーである。僕は十七歳童貞であるから以下略。

 それはそうと、入院してからこっち、僕とタケコさんの二人きりの時間というのは、夏山ルリカを家まで送った帰り道くらいしかなくなっていた。夏山ルリカの家まで送るのに、なんで僕まで一緒に行っているのかはよく分からない理由による。

「今日はお母さん遅くなるって連絡が来てるわ」

 タケコさんはスマホを確認しながら言った。おおかたLINEでも入っているのだろう。

「あ、大丈夫。カレー食べるつもりだったから」
「レトルト?」
「うん」

 レトルトと言って馬鹿にするなかれ。手軽に気軽に食べられるだけではなく、メーカーや商品によって味は千差万別だ。春賀家うちには僕の希望により、常に十種類以上のレトルトカレーが用意されている。僕は普段ほとんど母に注文をつけることはない。だから、このカレーというのはほんのささやかな贅沢なのだ。

 とかいうことを僕は力説し、女性人二人は「はいはい」と聞き流した。

「じゃ、とりあえずルリカちゃんを家に送りましょう」
「はーい、お願いしまーす」

 夏山ルリカは自分のカバンにスマホを押し込むと、さっさと帰り支度を始めた。僕は教科書を閉じて立ち上がる。まだ左肩はズキズキと痛みはしたが、出血もないし、動かすこと自体に問題はない。人間の回復力は素晴らしいが、早く治療用ナノマシンとか、そういうSF的なモノが現実世界に実装されてくれないかななんて切実に思う。

 ともかくも僕はカレーをおあずけにされた状態で、空腹を抱えつつタケコさんの真っ赤なWRXの助手席に収まったわけだ。

「ねぇ、ショーガツくん」

 ハンドルを操作しながら、タケコさんがやんわりとした声を掛けてきた。耳がとろけそうな甘い声だ。僕はシートベルトが肩の傷口に当たるのを気にしながら、「はい?」と答える。

「還屋未来のことは覚えている?」
「そりゃ覚えてるよ。同級生だもん」
「どんな子?」
「ええと、印象にはないなぁ」

 ほとんど学校に来ていなかったはず。席は僕の前だったはずで、おかげで見晴らしはいつだって快適だ。

「どうして還屋さんのことを?」
「いえ、いいのよ」

 タケコさんは溜息交じりに言った。その吐息はまるでタバコの煙でも吐き出しているのじゃないかってくらいに長くて、それが何故か無性に僕の不安を掻き立てた。

「ルリカちゃんも最近変な事はなかった?」
「ショーガツが襲われた以上に変な事はなかったわ」

 ですよね、と僕は心の中で同意する。これ以上おかしなことが起きるというのは御免だ。

「ねぇ、ショーガツくん。今見ているものや感じているもの。どこまでが自分の本物の感覚だと思う?」
「へ?」

 唐突に飛んできた哲学的な質問に、僕は思わず妙な声を出してしまう。

「私たちの感覚は、全てに由来するの。を踏まえて、私たちはモノを見て、モノを判断して、行動を決める」
「うん」

 それはそうだろうなと僕は頷く。

「でも、そのが間違えていたら? 改竄されていたら?」
「どうしたの、タケコさん。そんな哲学者みたいな事言って」
「哲学か……」

 タケコさんはまた、ふぅ、と息を吐いた。

「そうか」

 タケコさんはアクセルを踏み込んだ。WRXが加速する。

「そういうことか」
「なにが?」

 タケコさんの思いつめたような横顔に、僕は不吉な予感を感じてしまう。

「宝生よ」
「宝生……?」

 僕のの中に、白髪で猫背の男が浮かび上がる。あの捕食者のような目が、僕を見つめている。でも僕はこの男を知らない。知らないはずなのに、その目は僕を見つめている。

「どうしたの、二人とも。なんかピリピリしてるけど……」

 夏山ルリカが後部座席から声を掛けてくる。僕は振り返れないが、タケコさんはルームミラーにちらりと視線を送っていた。

「ねぇ、二人とも。私たちが政府の陰謀に巻き込まれてるって言ったら、笑うかしら?」
「政府の陰謀?」

 僕と夏山ルリカの声がハモる。

「正確には、内閣府情報調査室。官房長官直下の組織よ」
「それなんてドラマ?」

 僕が冗談めかして言うと、しかし、タケコさんは真剣な視線で僕を見た。信号は赤だ。

「私の父さんは、その内調傘下の組織、漸近科学研究所に所属していた」
「漸近科学研究所……漸科研?」

 なぜだろう。その物々しい名前には聞き覚えがあった。

「でも、ある計画に反対して、漸科研に所属していた宝生という男に消されたわ。文字通りにね」

 それはあっさりと語られたが、酷く物騒な話だった。内閣官房長官が絡んだ組織に所属していた人が、その組織の手の者によって殺害された……。そんなの、映画やドラマでしか見たことがない。まして僕みたいな一介の高校生に、そんなものが絡んでくるだなんて、ご都合主義以外の何物でもないだろうに――僕は他人事ひとごとのようにそう感じた。

「私の母さんは哲学科の教授。そうか、宝生……なんで今まで思い出せなかったんだろう。いや、違う。なんで今思い出したんだろう」
「何を言ってるの……?」

 僕と夏山ルリカの声がまた重なった。

「C的存在……と言われてピンとくる?」
「さぁ。ね、ショーガツ」
「還屋……」

 僕の頭の中に、還屋未来の姿が浮かび上がる。あんまり記憶にはないはずなのに、やけに鮮明に脳内映像化することができた。

「そう、還屋未来」

 タケコさんが頷く。車は最後の曲がり角に入った。

「どういうことなの?」

 夏山ルリカは不安げに尋ねてくる。その時、目的の家――夏山家――が見えてきたのだが、僕は「あれ?」と腕を組んで首を傾げた。傾げざるを得ない。

「夏山ルリカの家って、こんなに四角かったっけ?」
「何言ってんの。昔からこうじゃない」

 やけに几帳面な正方形の集まり――つまり。それは周囲の家からは明らかに浮いているのだが、確かに昔からそうだったと言えばそうだったかもしれない。

「僕が入院中に建て替えたんじゃないかって思ったよ」
「わたしが生まれた時からずっとこうよ」

 夏山ルリカはそう笑いながら言ってWRXから降りると、小さく手を振って玄関フードの奥に消えていった。やけに暗いその入り口には黒い板のような物が置いてあった。何か文字が書かれているようだったが、読むことはできなかった。

「タケコさん、なんかすごい違和感あるんだけど」
「そう?」

 タケコさんは何事もなかったかのように車を発進させる。その横顔はまっすぐ前を向いていて、視線もほとんど動いていない。僕はまるでマシンと一緒にドライブしているかのような居心地の悪さを覚える。じわじわとした寒気を覚えている。

「タケコさん。還屋とC的存在。それにさっきのある計画って……ACID……」
「そう」

 相変わらず前を向いたまま、タケコさんは唇だけを動かした。曲がり角を出てすぐに赤信号に捕まる。タケコさんは苛々とした様子で、ハンドルを指で小突いていた。

「私たちの記憶は既に奴らに喰われている。私のこの腕時計、これだけが私を繋ぎ止めている」
「その時計、なんだっけ」
「BOWシステム。C的存在にマークされた人間と、ACIDによって記憶をいじくられた人間を見つける事ができるの」

 タケコさんはその時計に視線を落とす。僕もつられてそのごつい腕時計を見た。だが、見た目にはただの腕時計だ。装着しているタケコさんには、何らかの信号が伝わるような仕組みにでもなっているのだろう。

「とすると、僕たちは」
「C的存在にも、ACIDの連中にも、私たちはこれ以上ないってくらい注目されているみたいね」
「そうなんだ」
「というよりも、あなたのクラスの全員がそうよ。そしてその根源は、還屋未来」
「……正直、荒唐無稽を地で行くような話に、僕はついていけてないんだけど、なんかヤバイ状況というのはわかる。刺されたし」
「そう。でも、誰もその時の状況を正確には覚えていない。警察すら来なかった」
「そうなの?」
「病院に警察来た?」
「ううん」
「でしょう?」

 そういえばそうだと僕は思った。だが、それを一度たりとて不思議に思わなかったのも事実だ。そして犯人もわからない。誰も調べようとしない。

「誰一人調べようとなんてしていない。だって、そんな事実はなかったんだから」
「え、でも、それじゃ僕のこの怪我は」

 それだけは紛れもなく事実だ。試しに触ってみたらやっぱり痛いし。

「わからない」

 タケコさんは首を振った。

「私が犯人を撃退したことにはなっている。私のの中ではね。でも、もうルリカちゃんですらその事実を覚えてはいないわ」
「C的存在?」
「あるいは、ACID」

 タケコさんの敵意ある言葉が響く。

「ショーガツくん。車を降りて、家まで真っすぐ帰って」
「え?」
「ここからなら三分かからないわ」

 タケコさんは後部座席から黒い警棒のような物を取り出した。僕はヘッドライトに照らされた先に立つ人間たちに、その時ようやく気が付いた。

「ACIDの実行部隊よ」
「真っすぐ帰っても、追いかけてくるじゃない」
「彼らの狙いは私だから、あなたは逃げられるわ」
「冗談! 見捨てて逃げろって?」
「あなたじゃ戦力にならない。足手まといになる」

 タケコさんの鋭い口調に、僕は言葉を失ってしまう。確かにそうだ。戦ったこともない上に怪我もしている僕は、明らかに邪魔になる。

「このまま突破できないの?」
「無理よ。あいつらの後ろ見て」
「装甲車……?」

 なぜか街灯が切れているその先に、黒い大きなものがいて、こっちをじっと見つめていた。

96キューロク式――いよいよ政府が動き始めたわね」
「タケコさん、なにものなの?」

 僕は思わず訊いた。タケコさんはその美しい顔に荒んだ微笑を浮かべる。

「CIROに叛逆する者よ」
「でもそれは」
は立場によって変わる」

 片側二車線のメインストリートだというのに、車も人も何も通らない。まるで僕らのために道路を封鎖でもしているんじゃないかというくらい、そこは不気味に静かな空間だった。

「いい? 肩が痛もうが傷が開こうが、振り返らずに走って」
「……わかった」

 僕は頷いた。意を決して。

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