家には母がいて、待ってましたと言わんばかりに三人分の紅茶とお菓子を出してくる。お菓子と言っても、市販のメジャーなモノのアラカルトである。うちの母には、本人曰くケーキ作りの才能はなかったらしい。
高校三年、十七歳男子な僕としては、食べ物はいくらあっても困らない。万年空腹ボーイである。
「その食欲があるのに、どうしてショーガツはわたしより小さいんだろうね」
「それを言うなッ」
誰だってカチンとくるようなことを、夏山ルリカは平気で口にする。クラスメイトの前やらではそんなことは絶対に言わないのだが。夏山ルリカは気さくにして気配り上手な美少女――学校内での評判はそんなところだ。確かに気さくだし、人付き合いがそれほど得意でもない僕ですら対等に口を利ける異性であるという意味では、気配りも上手いと言えるのだろう。美少女、という点に関しても異論はない。だが、何か違う。何か足りないのだ。
「男の子の価値は背丈では決まらないわよ」
紅茶を飲みつつ、タケコさんは言った。
「むしろ、大きい男よりも魅力的だと思うわ、私」
僕とタケコさんの視線が合う。その魅力的な黒い瞳が僕の顔を真っすぐに捉えている。僕は慌てて目を逸らす。女性と見つめ合ったなんて経験、正直言うとないのだ。夏山ルリカとですらないと思う。耳のあたりがカッと熱くなるのを感じたが、僕は心の中で般若心経を唱えて平静を保つ。
タケコさんの左手のごつい時計が目に入った。軍隊ででも使われていそうなほど頑丈そうな時計だった。なんで今まで気付かなかったんだろうというくらいに、タケコさんの細腕には不釣り合いな時計だった。
「その時計、トラックに踏まれても壊れないんじゃない?」
「あら?」
タケコさんは左手をヒラヒラさせつつ首を傾げた。くっ、その所作が似合う。僕はやっぱりこの美人女子大生にはドキドキさせられてしまう。それもそうだ、だって僕は性欲旺盛な十七歳童貞なのだから。
「この時計はね、父さんの形見なのよ」
「へえ」
「着けてなくても肌身離さずよ」
「そうなんだ」
何となく既視感を覚えるやりとりだったが、まぁ、たぶん気のせいだ。第一昨日はこんな時計着けてなかったはずだし、着けていたらそもそも目につくだろう。それだけになぜ今日、今になって気付いたのかが少し気になった。
「では朱野先生」
母がやってきて小さく頭を下げる。
「今日から正式によろしくね」
「はい、お任せください」
僕らは気持ち急いで紅茶を飲み干すと、残ったお菓子を入れた皿を持って二階の僕の部屋へと移動した。夏山ルリカは勝手知ったる何とやらで、僕より先に僕の部屋に入ったりした。まぁ、それ自体は慣れっこではあるのだが、タケコさんが「ええ……」と困惑した感じの声を出した。そこには軽い苛立ちも含まれていたんじゃないかなぁなんて、瞬間的に思ったりもしたが、もちろんのこと口には出さない。余計なことを言うと痛い目に遭うというのは、(大変遺憾なことに)夏山ルリカによってしっかりと覚えさせられてしまっていた。
「じゃ、わたし適当にくつろいでるから」
夏山ルリカはそう言って鞄を床の上に置くなり、僕のベッドに倒れ込んだ。そしてそのままゴロゴロ転がって自分のポジションを作るとすぐに、いつの間にやら持っていたスマホをいじり始めた。いつもの光景である。しかし、どうしてこうまで危ないシチュエーションなのに、今まで間違いの一つも起きていないのか。僕はもしかしてそういう方面、ダメなんじゃないだろうかというような不安に駆られなくもない。中学一年の頃からこんな感じだが、一度とて性的対象のように思ったことがないのだ、不思議な事なんだけど。
「無防備すぎよ、ルリカちゃん」
「あら、ショーガツなら大丈夫よ」
夏山ルリカはスマホから目を逸らさずに軽い口調で答えた。うつぶせでスマホを見ている夏山ルリカは、両膝を折り曲げている。スカートが良い感じに捲れている。
「ショーガツくん的には何かないわけ?」
「ん、特に」
いまさら注意するようなものでもないし。そういえば僕と夏山ルリカって、最初どういう出会い方をしたんだっけ。もう五年も前の話なのでよく覚えていないや。最初から気さくな奴だなーなんて思ったりはしたんだけど。ていうよりも、それまでほとんど女子とは無縁な生活をしていた僕にとって、僕に話しかけてきた女子がいたことが驚きだった。最初は新手のイジメか何かの一部かと勘繰ったくらいだ。
「ま、いいけど。じゃ、英語からね。宿題はやった?」
「やったよ」
僕は机上に置かれたままのノートを広げてみせる。
「オーケー。じゃぁ、こっちの問題やってみて」
タケコさんはクリアファイルの中から一枚のA4の紙を取り出した。そこには10.5ポイントの文字でびっしりと問題が書かれている。
正直「うへぇ」とは思ったが、今になって「やっぱり無理です」とは言いにくい。パッと見、問題自体はさほど難しくはない。昨夜勉強した記憶がまだ思いのほか鮮明だ。僕はさっそくその問題に取り掛かる。夏山ルリカの視線を感じたような気がして、一瞬だけベッドに目をやったが、彼女はじっとスマホを見つめていた。気のせいか。
その一方で、タケコさんは距離が近い。とても近い。今にも身体が触れてしまいそうなほどの距離で、僕の手元を覗き込んでいる。
「あの……」
「なに?」
「手元見られると文字書きにくいんですけど」
「あら」
タケコさんは「それもそうね」と言いつつ、左手のごつい時計に目をやった。
「オーケー、それ、十五分で終わってね」
「まじすか」
「まじすよ」
タケコさん、ウィンクを一つ。その所作に気付いたのか、夏山ルリカの肩がピクリと反応した。
でもとりあえず今の僕には十五分しかない。一応用紙の裏面も確認し、片面印刷であることに少し安心する。それなら大したことはない。スペリングの確かめをしても間に合うだろう。こう見えても僕はそこそこ頭は良いのだ。あくまでそこそこ……なんだけど。しかしね、僕は本当に一所懸命やってるんだけど、こうして他人のベッドで漫画を読んでる夏山ルリカに一歩及ばないのが解せない。努力量だけなら僕の方が上だろう――僕は常々そう思っている。だけど、それが正しいのだとすれば、それは根本的に僕の頭がよろしくないことを自分で認めてしまっているということにもなる。解せぬ。
そんなことを思いながらも、僕の右手は勝手に動く。サラサラと見事な筆記体が白い紙に刻まれて行く。長文問題がないのが幸いだ。単語と文法さえ把握していればどうにでもなる。分かる、分かるぞ、ふはははは。
「へぇ」
僕の実力を目にして、タケコさんは関心したような声を上げた。もっともっと褒めてくれても良いのよ。
結局、ものの八分で解き終わった僕は、ドヤ顔でノートをタケコさんに突き出した。夏山ルリカがちらりとそこに視線を送ったのを僕は確認する。が、夏山ルリカはさほど関心を持つこともなく、またスマホに視線を戻してしまった。そのことに僕はなんだか無性に脱力してしまう。ちょっとは「へぇ」とか「すごいね」とかいう言葉を期待していたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。つまるところ、自分の感情がよく分からない。
「この問題が全部解けるとはね。思っていたより、手強いわね、ショーガツくん」
「なんか悪役みたいですよ、タケコさん」
「悪役か」
タケコさんはノートを見つめた態勢のまま、しばし固まった。あまりに長時間に渡って無言だったものだから、思わず夏山ルリカもタケコさんを見たよね。僕は「あのぅ?」と声を掛けて、もう一度「あのー?」と言い、そして「タケコさん?」と呼びかけた。それでようやくタケコさんは我を取り戻し、「ああ、なんでもないわ」と首を振った。
「大丈夫なの、タケコさん」
「何が?」
「今、完全に魂抜けてたでしょ?」
「人の魂は他人の記憶に保存されるのよ。抜けるものじゃないわ」
「他人の記憶に?」
何をわけのわからないことを言い出したのだ、この人は。僕は思わず夏山ルリカを見たが、夏山ルリカは目を皿のようにしてスマホを凝視しており、僕らのやりとりなどには一ミリの関心もないようだった。彼女はいつもこうである。それでいてドライアイが~とか言うのだから、女子というやつは本当に正体不明の存在だ。
「魂というのは、他人から投影されたその人の似姿に過ぎないのよ、ショーガツくん。そしてね、その人はその似姿を見て自分の在るべき姿だと錯覚し、そして漸近していくのよ」
「漸近?」
「徐々に近づくっていう意味よ、漸近は」
「漸近線とかで意味はわかってるけど」
「でもね、人っていうのは、その人こそが真であって、他人からのバイアスを受けて作られたものは本来は偽であるはずよね。でもね、魂というのは他人による規定、いわば完全なるバイアスであるにも関わらず、どの他人から見ても、その魂のありようこそが真であって、それ以外の、つまりその人本来の姿は偽になってしまうのよ。明らかにその人本来の姿が魂と乖離していたとしても、今やメディアやSNSで多数がその魂を規定してしまえば、その人本然の形なんて誰も見つけようとなんてしないし、よしんばそういう人が現れたとしても、群衆という形に一体化した他人は、それを一顧だにしないわ」
僕はタケコさんの長口上をさぞ間抜けな顔で聞いていたことだろう。正直言って半分も理解できなかった。
「それで、あの」
僕は何とかそう言った。そこでタケコさんは目をパチクリとさせて、「あらら」と手を叩いた。
「そうね、今日は実力を確認させてもらうための日だから、いろいろやってもらうわ。数学と古文漢文。あと英語の長文読解もあるわ」
「ええ……」
「ササっと終わらせたら良いだけの話」
そりゃそうなんだけど。
と言いつつ、僕は四枚の問題用紙を受け取ると、時間を計りつつ出せる限りのスピードで問題を解いていく。最初の英語ほど楽勝というわけにはいかなかったが、それでも九割方は正解できた確信があった。もっとも、最後にトライした英語の長文読解問題にはとても手を焼かされたのだけど。どうやら「ライ麦畑でつかまえて」という作品からの抜粋らしかった。タイトルくらいは僕でも知っている。
その一部を抜き出すとこんな感じ。
I thought what I’d do was, I’d pretend I was one of those deaf-mutes. That way I wouldn’t have to have any goddam stupid useless conversations with anybody. If anybody wanted to tell me something, they’d have to write it on a piece of paper and shove it over to me.
これを訳せと言うんだから、タケコさんは鬼か悪魔じゃないかなんて具合に思ったわけだ。もちろん、辞書なんて使わせてくれやしない。インターネットも厳禁だ。外部記憶に頼りたい、集合知が使えるなら使ったっていいじゃないか――そんな僕ら高校生の抗議の声は、社会の下から二番目以上の階層にいる大人たちには届きやしない。いつまでも紙の辞書に拘ってる人がいるという事実も、本来なら時代錯誤って鼻で哂われるべきものなんだろうに、勉強のこととなると話は別になるらしい。パソコンも使えない先生がいるというだけで、その学校には幻滅しちゃうだろうにね。
ともかく、僕はこの文脈には非常に梃子摺らされた。
結果導き出したのが以下の翻訳だ。
僕は何をするべきかと考えたんだけど、deaf-mutesの一人になった振りでもしようかと思い至った。それが良い方法だと思ったんだ――馬鹿っぽくてどうにもならないような会話をする必要をなくするためのね。もし誰かが僕に何かを言おうとでもいうのなら、彼らは一枚の紙にその内容を書いて僕に見せなきゃならないわけで。
「そう来るか」
タケコさんは僕のノートを覗き込みながら頷いている。
「ずいぶん余計な言葉が付いてるけど、詩的に考えるなら悪くはないわ。村上春樹の翻訳が有名なんだけどね。読む?」
「読んでも良いけど」
「『ライ麦畑で捕まえて』よりも、『ナイン・ストーリーズ』の方が私好みなんだけどね。どっちも貸してあげるわ」
タケコさんはバッグの中から薄めの文庫本を二冊取り出した。
「ライ麦の方は厨二病の権化とも言える作品だから、きっと面白いわ」
さすが英文学専攻だな、なんて感想を持つ。
「夏山ルリカは読んだことあるの?」
「ライ麦の方はあるけど、よく分からない話だったわ」
「ふぅん」
なるほど。僕は二人が帰ったら読もうと考えた。他人から小説の類を薦められた事は今まで一度もなくて、しかもそれが英文学専攻の大学生――僕にはずいぶんと大人に見えた――に薦められたものとあっては、胸がときめかないわけがない。文学に対する興味というよりも、それを読み終えた自分が浴びるであろう喝采と羨望にこそ、僕は夢を抱いたのかもしれない。とんだ厨二病だ。
「さて、ショーガツくんの実力もわかったし。今日の所はこんな感じね」
「もう終わり?」
まだ一時間しか経ってないけど。
「また明日来るわ」
タケコさんは僕の肩を軽く叩いてから、僕に大量の紙を手渡してきた。
「なにこれ」
「過去五年分のセンターの模擬試験。これ、やれる限りやっておいて」
「ええっ」
「それとも何? 私に与えられないとやる分量を決められない?」
「それは」
なんと難しいことを言うのかと、僕は少なからず憤慨した。
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