それから間もなくタケコさんは部屋から出て行ったが、暫くの間、一階にてうちの母と何やら喋っていたようだった。その間、僕はウトウトし始めた夏山ルリカを尻目に、与えられた過去問題に猛然と取り掛かっていた。可能な限り撃破してくれる――僕はそう決意した。上限が設定されないというのはある意味地獄だなと僕は思う。自分で定めた目標が適正なのか否なのか、承認を受けられないままでそこに突き進んでいかなければならないというのは、まるで作家にでもなろうと努力しているとか、そういう気持ちに近いものがあっただろう。
「ほんと、ショーガツってクッソ真面目だよね」
「起きてたんか」
「半分寝てたけど。あんたの後ろ姿、鬼気迫ってるよ」
「そう?」
そんな会話をしながらも、僕は夏山ルリカを振り返ったりはしない。たとえ彼女が全裸であったとしても、僕はそっちを見ることはなかっただろう。いや、全裸だったらちょっとは見たいかもしれない。なにせ僕は十七歳の童貞だ。
夏山ルリカの代わりに時計の方に視線を飛ばす。時刻は午後三時を少し回ったところだった。そういえばお菓子は食べたけど、昼ご飯を食べてない。お腹も空くわけだ。その時、僕と夏山ルリカのお腹が同時に音を立てた。
「おばさんに何か貰ってくる」
夏山ルリカはスマホを握りしめて勢いよく立ち上がった。その弾みでスカートが大きく開き、太腿のつけね付近までが露になる。白くてきれいな肌だなとは思ったが、不思議なことに全くムラムラしない。だいじょうぶか、僕。そんなことを自問している内に、夏山ルリカは部屋を出て行った。
僕は再び机に向かい、現代文の問題文を読み解いていく。楽勝ではないにしても、思ったほど難しくはない。まだ習ってない内容も幾らかは出てきていたが、それでも現時点では良い方だろう。分からなかったところを重点的にタケコさんに教えてもらえばいい。僕はそう考えた。
僕は昔から問題集は一教科につき一つしか使わない性質で、しかしその代わりにボロボロになるまで使い倒してきた。少なくとも今までの所は、一冊の問題集を完全に覚えるまで使い潰せば、たいてい頭に入ることが証明されている。複数の問題集を一周ずつだなんて、コスパが悪くてやっていられない。僕は家計にも優しい高校生なのだ。
「ショーガツ、大福貰ってきたよ」
ノックもせずに夏山ルリカが入ってくるが、これもまた日常茶飯事。驚くことでもない。それにしても大福とはありがたい。空腹時はこれに限る。
僕は夏山ルリカが大福と共に持ってきたペットボトルのお茶をグラスに注ぎつつ、目の前にぺたんと座っている夏山ルリカにちらりと視線をやった。まるでおやつを待っている犬のように、目を輝かせて座っている。今にもヨダレを垂らしそうな、だらしのない顔をしている。
「ほら」
僕は緑と白の大福を一個ずつ、ティッシュの上に置いた。これは僕用。皿の上の二個は、夏山ルリカにくれてやろう。
「それでさぁ、ショーガツ」
さっそく緑の大福に齧りつきながら、夏山ルリカがもごもご言った。
「タケコ先生はどういうわけで家庭教師に?」
「それがよくわからないんだよ……」
正直に言ってみる。
「ただね、あの人、バス停でさ、なぜかいつも隣に並ぶんだよ」
「バス停って、どこの? 月寒中央駅?」
「うん」
「いつもってどういうこと? 学校帰り、わたしたち大抵一緒じゃない?」
「あれ?」
そりゃそうだ。一緒に帰らない日の方が少ない。なのに僕は。
「なんかいつもいる気がして。昨日もそんな話したし」
「なんでいつもわたしがいるってことに思い至らなかったの?」
「うーん……なんでだろう」
真剣に悩む僕である。
「でも、あの人は僕の隣にいつもいて、僕はそれをすごく不審に思ってて……」
「なんかおかしいなぁ。さっきの立方体だのキャンピングカーだのもそうだけど、どうかしちゃってるんじゃないの、ショーガツ。勉強のし過ぎかぁ?」
「いやいや、そんなはずはないよ」
と言いつつも、今一つ自分が信用できなくなっているのも事実だ。ていうか、この世界が夢である可能性なんてないのだろうか。現実というにはあまりにもハチャメチャな気がするし、いろんなものの整合が取れない。自分の腕を小さくつねってみるが、ちゃんと痛い。まぎれもなく痛い。ということは夢じゃない、と。
「痛みなんて、現実と夢を区別する目安になんてならないわよ。痛み自体、脳神経が作り出す信号の果てに生まれるモノでしかないのだから、夢の中でだってそれは発動するわ。痛覚が発動したという感覚でもってね」
「でも夢だったらビルから落ちたって死なないじゃないか」
「死んでるのよ」
夏山ルリカが僕を見る。その瞳はぬるりと湿っていて、僕はまるで蛇にでも見つめられているんじゃないかって言う気になったりもした。そんなこと、絶対に口には出せないけれど。夏山ルリカは僕に顔を近づける。
「死ぬまで目が覚めなかったことってある? 大抵、地面にぶつかる直前に目が覚めた気になっていない?」
「……確かにそうかも」
「でしょう?」
大福を食べながら夏山ルリカがもっともらしく頷いた。
「夢の中では死んでいるのよ。でも、自分のリアルな死というものに直面すると、人間は錯乱しちゃうから、脳は記憶を少しだけ巻き戻す。そして海馬からもその嫌な記憶を消して、ただの妄想に留め置いてる。実際はね、人間は夢というアスペクトに於いて、何度も死を経験しているのよ。来るべき現実の死に備えて、脳が幾パターンもの死をシミュレート、いえ、エミュレートしてると言えるのね」
「ええっと、夏山ルリカさん?」
「んっ?」
もぐっと大福を飲み込みながら夏山ルリカは僕を見る。まるで頬袋にどんぐりを詰め込みまくったリスのような表情で、それはなんだかあまりにも危機感のなさすぎるありさまだった。
「つまりさ」
お茶をごくんと飲み下し、夏山ルリカは僕に顔を寄せた。
「キスしようか?」
「えっ?」
「これで目が覚めたら夢だってことでしょう?」
「それは、ちょっと」
でも確かにこの世界は夢かもしれない。僕は色々な不審現象を思い起こす。思えば昨日から何か変だ。家庭教師、タケコさんがやってきたところ辺りから、何かがバグっているような、そんな気がしなくもない。タケコさんのことを変な人だなと思っていたわけだけど、実は変なのは僕の認識の方じゃないかな、なんて。
バス停で隣にいつもいて、密着せんばかりに近付いてくる変な女子大生。
この時点でえらく不自然だ。バス停で僕の隣にいるのは、ほとんどいつだって夏山ルリカなわけで、であれば他の女性がずずいと近付いてくることなんてありえない。夏山ルリカは僕にとっては女性よけのような役割を果たしているからだ。それは半ば以上に余計なお世話なのだけれど、さしあたり恋愛なんてしてる場合じゃないから別に良いかななんて思っていたりもする。それに僕自身、特定の女性一人に熱を上げている自分が想像できなかった。夏山ルリカのことが好きなのかもしれないと思った事はなくもないのだが、結局「気のせいだろ」という結論になってしまっていて今に至っている。夏山ルリカにだってそんな気はないに違いなかった。
「キスはイヤ?」
「嫌じゃないけど、でも、そうだな、あんまりよくない」
「じゃぁ、殺してあげようか」
「えっ」
思わぬ言葉に僕は息を飲む。
「この世界から脱出させてあげる」
「ちょちょっちょっとまって」
僕は慌てて距離を取る。夏山ルリカの手には、鋭いナイフが握られていたからだ。アクション映画でよく目にするコンバットナイフの類だ。
「なんでそんな物騒なモノを持ってるの。危ないからしまって。銃刀法違反」
「この世界はおかしいと思わない?」
「なんか変だけど、それはきっと僕の夢みたいなもので、夢なら醒めるからほっといてOK。あんだすたん?」
「夢が醒めるですって?」
夏山ルリカは冷笑した。見たことのないほど温度のない微笑に、僕は心臓が凍る。
「この世界がショーガツの現実になっちゃう前に、脱出した方が良いと思うけど」
「いやいや……。それにしてももっと穏便な方法があるでしょうに」
「じゃぁ、わたし、死ぬわ」
「ちょっと待――
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