LC-02-001:濡れた女子大生

ロストサイクル・本文

 四月は何の滞りもなく過ぎた。タケコさんは週に三回ウチにやってきて僕に勉強を教え(主に模擬試験の答え合わせとそれについての詳細な解説なのだが)、夏山ルリカは部活を半ば引退したために、土曜日を含めて週三回はウチにやってきていた。夏山ルリカは学習塾に通っているのだが、どうやらやめる予定でいるらしい。

「タケコさんに教えてもらった方が良いかなって気がして」
「そうなの?」
「塾、嫌いなのよ。勉強の楽しさを教える気がないんだもの」
「でも、教えてもらうのが嫌だって言ってなかった?」
「うん」

 夏山ルリカは素直に頷く。

「じゃぁ、なんで?」
「わたしも気分変えたい時があるのよ。だから五月からは週二回、火曜と金曜に、一緒に見てもらうって話になってるの」
「ええっ? 火と金って、うちでやる日じゃん」
「だから、あんたんとこで。あ、もちろん授業料はちゃんと払うわよ、うちで」

 僕たちは今は帰りのバスの中だ。時刻は午後四時半。家につくのは五時で、そこから七時まで家庭教師タイムである。夏山ルリカはその後で、タケコさんの車で家に送り届けてもらうことになっている。時々、タケコさんともどもうちで晩御飯を食べていく。

 うちはぶっちゃけ母子家庭である。が、中学一年の時に父が事故で亡くなった際に、諸々で大金が入ってきた。家のローンもなくなった。そんなわけで、経済的にはかなり裕福な部類に入るだろうと思っている。母は母で、某大企業の子会社の管理職であるから、手取りはかなり良い……と思う。具体的には知らない。

 母が帰ってくるのがだいたい六時ごろであるが、仕事の忙しさによっては深夜を回っても帰ってこないことが間々ある。多分、その辺を憂慮した上で家庭教師をつけるという選択をしたのだろうなんて思っていたりもするわけだ。僕は一人でも平気なんだけど、そういう事なら受け入れてやるのが孝行息子というものだろう。僕は家庭教師に関しては特に文句は言わなかったし、タケコさんの振る舞いについても特に何も言う事はなかった。余計な心配をかけさせても、僕が面倒に巻き込まれるリスクが増えるだけだ――そんな風にも考えた。

「今日は火曜だけど、今日から?」
「んーん。金曜から。さすがに唐突過ぎるわってうちのお母さんが」
「ちょっと待って。次の金曜、ゴールデンウィークだよね」
「だから? わたしたち受験生だよ」

 うわ……。

 僕は予想外の展開に少しげんなりした。ゴールデンウイークだからと言って、取り立ててどこかに遊びに行く予定なんてないのだけども、それでも世間一般が休んでいる間は何となく休みたい気分だった。もっとも、夏山ルリカの言う通り、真面目な受験生たちはその期間にこそしのぎを削るわけなんだけど。その期間の勉強の差がただちに受験結果に反映する――だなんて論理的におかしなことは考えたりはしないのだけれど、問題はその意気込みだ。そしてそれは根性論のようなモノだと僕は思ったりもする。

「まぁ、いいんだけどさ。タケコさん的には大丈夫なのかな」
「お母さんが話してくれたんだけど、全然大丈夫って言ってたよ」
「そうなんだ」

 そこはNGでも良いのにななんて思う。

「でも、今日はまたウチに来るんだろ?」
「ううん。今日はちょっと用事があって。次で降りるよ」
「あ、直帰するのね」
「ううん。紗千さちとスタバで待ち合わせしてるの」
「さち?」
「陸上部の後輩。さっきLINE来てて」
「そうなんだ」

 大方何かの悩み相談だろう。学校の中で話せないような事案となると、恋愛関連だろうか、なんて邪推をしたりする。でもともかく僕には関係のない話であることは確かだろう。

 そんなことを考えながら窓を見る。窓にぽつぽつと水滴が付き始める。この五月になろうかというこの時期、しかしまだまだ寒い。この季節の雨は、身体の芯から冷えてしまう。

「傘持ってる?」
「折り畳みあるから大丈夫だよ、ショーガツ」

 夏山ルリカはカバンから白い折り畳み傘を取り出して軽く振ってみせた。

 そして彼女は降りていく。

 バスの停車ボタンの灯りが消え、バスが再び動き出す。僕は車外の夏山ルリカに軽く手を振ると、スマホを取り出して何となくニュースサイトにアクセスしようとした。が、どうしたわけかネットワークが繋がらない。まぁ、よくあることだ。端末を再起動すればなおる手合いの現象だ。

 僕は落ち着いて端末の電源ボタンを長押しし、画面に出てきた「再起動」のアイコンをタップする。画面が暗くなり、無表情な男の顔が映し出される。それは紛れもなく僕の顔であるはずなんだけど、なぜだか異常な怖気おぞけを感じたりしたわけだ。その時の心理的圧迫感と言ったら凄絶なものがあって、僕は息を飲み殺して、毛羽けば立った全身を鎮めなければならなかった。

「なんだよ、もう」

 僕はようやくいつものホーム画面を表示したスマホに向かって文句を一つ吐き出す。そこにはもう僕に似た誰かはいない。僕という人間の顔も映らない。

 そんなこんながあったからなのか、僕はニュースサイトを見る気をすっかりなくしてしまって、ただぼんやりと黒く染まったアスファルトを眺める。目的の停留所まではあと二つ。ぼんやりしていれば一瞬で過ぎ去る時間でしかない。

「あれ……?」

 僕はふと窓に張り付き、バスの後方を見た。

 ない。

 立方体の建物がない。

 今確かに見えた気がしたんだ。異常なほど立方体の建物が。なのに、それがあったであろう場所には、なんてことのない、古びたコンビニが鎮座している。その佇まいは、とても立方体には見えない。第一に、錯覚する理由すらなかった。

 バス停を一つ過ぎたあたりで僕は窓から離れ、いささか憤然とした感情を持て余しながら停車ボタンを押す。ぴんぽんと音が鳴って、運転手が「次、止まります」と義務的に反応する。まるで僕がボタンを押したらそう発話する仕掛けでもあるかのようで、それはなんだかひどく陳腐なものに思えた。運転手さん相手になんて失礼な事を言うんだと、僕の中の正義の僕は憤慨したが、誰が何と言うにしても、僕は確かにそう思ったのだ。

 バスを降り、まるでロボットのような足取りで家に急ぐ。僕は傘を持ってこなかった。必然びしょ濡れになってしまうわけで、たぶんカバンの中の教科書の類も湿って波打つことになる。まぁ、それはしょうがない。学校指定のカバンのくせに防水じゃないのがどうかしてるんだ。

 ひたひたと降りしきる雨の音を聞きながら、僕は玄関のカギを開け、中に入り、靴を脱ぐ。制服が上から下までびしょ濡れだったし、髪の毛もまるでシャワーでも浴びたかのようにべっとりと僕の顔に這いつくばっていた。

 バスタオルで頭を拭きつつ時計を見ると、四時五十五分。エンジン音が聞こえ、僕の家の前で止まった。窓から外を見ると、そこには真っ赤なWRXが停まっていて、中からタケコさんが駆け出してきた。今日は白いロングTシャツにデニム地のタイトスカートという出で立ちだった。

「ひゃー、濡れた濡れた」

 数分後、僕らはそれぞれ頭にバスタオルを乗せていた。タケコさんはさほど濡れなかったが、それでもTシャツの布地が透けていて、ブラらしきものの形が浮かび上がっていた。一方の僕はそれどころではなく、それこそ比喩でも何でもなくパンツまでびしょ濡れという事案が発生していたので、先ずは軽くシャワーを浴びるということになった。

「タケコさん、覗かないでよ」
「なんで?」
「なんでって?」
「一緒に入ろ♡」
「断る」

 すわ、僕の鉄の意志を見せる時である。部屋はいい感じに寒いので、早く着替えないと死活問題である。だが、タケコさんは僕にしがみついて離そうとしない。完全にセクハラ状態である。

「一緒には入りませんし、そもそも僕の裸も見せません」
「その目、蔑むような目! たまらないわッ!」
「はいはい……」

 お望みならば、いくらでも睥睨してやろう――僕はありったけの眼力を込めてタケコさんを見下ろした。僕の腰にしがみついて僕の顔を見上げているタケコさんの目は、間違いなく潤んでいた。感極まったということだろう。とんだ変態である。

「ところでほんと、風邪ひいちゃうから」
「むふー。仕方ないわね。私、おとなしく待ってるから」
「すぐ戻ります」

 ようやく離れてくれたタケコさんを置いて、僕は一階のバスルームへと駆ける。

 手早くシャワーを済ませて着替えた僕は、階段を上ろうとしたその時に軽い眩暈を憶える。あれ、もう風邪ひいたのかな? そんなことを思いながら、手すりにつかまって三度ほど深呼吸をした。ふと思い立ってスマホを見ると、午後五時十五分と表示されている。思ったよりも時間がかかってしまっていた。

 僕は少し慌てて階段を駆け上がり、自分の部屋のドアを開ける。

「って、ええっ!?」

 思わずドアを閉めた。

 なぜなら、タケコさんのほとんど何も遮るもののない背中が見えたからだ。つまり、上半身はブラだけという状態だ。

「ごめーん。遅いから私もちょっと着替えておこうかなと思って」
「着替えるって」

 僕はドアを背にしながら言った。

「タケコさん、着替えなんて持ってきてたの?」
「ううん。ショーガツくんのシャツを拝借しようと思って。ダメかな?」
「いや、別にいいけど」

 僕は溜息をついて、ベッドの下にある衣装ケースの存在を教えた。

「あったあった。こんな所に隠れていたのね」
「エロ本見つけたみたいに言わないでください」
「今日日高校生がエロ本なんて読まないわよ。どーせスマホでそういうサイト見てるんでしょう?」
「み、見てないって」

 ……嘘言いました。

「見たいなら私の見せてあげるのになぁ」
「き、興味ないし」

 また嘘を言ってしまった。

 だって僕、十七歳童貞だよ。見たくないなんて言ったら嘘になるに決まってるじゃないか。

 僕が火照る顔に風を送っていると、ドアがガチャリと開けられた。そこには僕のTシャツを着たタケコさんが。そしてそこで僕は気付く。

 Tシャツが小さいのだ。

 それはそうだ。小柄な僕のTシャツを、男子の標準より背の高いタケコさんが着用する。その結果がどうなるか――見ての通りだ。身体にぴったりと張り付いたTシャツは、その豊かな胸の盛り上がりを一層に強調し、そしてその裾からは今にもお腹が顔を覗かせそうな具合だった。考えてもみてよ。身体にぴっちりの小さめTシャツを着たナイスバディの女子大生。しかも下はタイトスカートで、スリットから太腿がチラ見えしているんだ。劣情を誘うとか誘わないとか、そんなチャチなもんなんかじゃ断じてない。確実に殺しに来ているファッションである。

「さ、お勉強しましょ。保健体育で良いんだっけ?」
「ちがいます」

 僕は大真面目に返答する。ノリツッコミをするのがお作法であると思わないでもなかったが、今の僕の心拍数の関係上、それは命に関わった。必然、ユーモアの欠片もないただの否定文を発してしまっている。

「その時計、なんかアンバランス」

 タケコさんの左手には、まるで軍隊で使われてでもいるんじゃないかというような、ごっつい時計が着けられていた。トラックに轢かれたって、この時計だけは無事に違いない。

「ああ、これ? これ、父さんの形見なのよ」
「へぇ、そうなんだ」

 何となく既視感を憶えつつ、僕はそんな相槌を打つ。

「それはそうとね、ショーガツくん」
「はい?」

 僕のノートに丸付けをしながら、タケコさんが鼻歌のように声を掛けてきた。

「最近何か変わったことは起きてない?」
「ん? 特にないけど、なんで?」
「それなら良いんだけど。変な人を見たとか、そういうのもない?」
「タケコさんくらいかな」
「舐めるよ?」
「やめてください」
「友達とか、何か様子のおかしい子はいない?」
「んー……。ゴーキがここ一週間くらい元気なかったかな」

 確かにゴーキの様子はおかしかった。溜息が増えていたし、話しかけても上の空。授業中もぼんやりしていて、しばしば先生方に叱られていた。

「その子、ガールフレンドはいる?」
「ガールフレンドかどうかは知らないけど、還屋かえりやと何か話し込んでいたな」

 掃除当番の時、あの二人は回転ボウキを抱えたまま、教室の隅でひそひそ話をしていた。

「還屋?」
「還屋未来ミキ。可愛いけど、あんまり目立たないタイプ」

 茶髪をツインテールにした小柄な女子だが、僕は話をした記憶がない。還屋が誰かと話をしていること自体、珍しい。だからなおさら、ゴーキのような奴が還屋みたいな子と話をしているのは珍しく映った。

「その子、詳しいこと分かる?」
「どうして?」
「……大学の同期に還屋って子がいてね。その関係者かなって」
「そういうことか」

 僕は腕を組んで天井を見上げる。

「珍しい苗字だしね」
「でしょ」

 タケコさんは丸付けを再開する。英語はともかく、数学が酷いものだった。習ってない分野の問題が含まれていた故だが、それは理由にならないだろう。タケコさんの解説をしっかり聞く他にない。

「ゴーキ君、か」

 タケコさんは記憶を焼き付けるように、その名を呟いた。

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