その翌日、五月二日、ゴーキは学校を休んだ。皆勤賞が狙えるんじゃないかってくらいに休まなかった男が休んだことに、僕と夏山ルリカ、そしてチョッカは揃って驚いた。何かあったんじゃないかなんてチョッカは言ったけど、僕と夏山ルリカは「鬼の霍乱だ」と言って笑って流した。誰だって体調の一つくらい崩すだろう。ましてゴールデンウィークだ。なんだかんだ理由をつけて休みたくなる気持ちは、痛いくらいによく分かった。色々と忖度した結果、僕は結局、LINEの一つも送らなかった。
事の深刻さに気が付かされたのは、五月八日の火曜日になってからだった。雨の降りしきる中、ゴーキは一時間目も半ばに差し掛かる頃になってフラフラとやってきた。その幽鬼のようなありさまに、日本史の女性教諭は職員室に飛んで帰って担任を呼んできたほどだ。
ゴーキは即刻保健室に拉致されて行き、結局その日はそのまま帰ってこなかった。
「ゴーキ、なんか変だったよね」
掃除中、夏山ルリカはチョッカとそんな話をしていた。僕は何とコメントしたら良いか分からぬまま、机を並べ始めている。
ゴーキはまるで幽霊そのものか、それとも幽霊に出会ってしまった人のようなありさまだった。びしょびしょに濡れた全身、虚ろな目、半開きの口、傾いた背骨、そういったゴーキを構成するありとあらゆるものが歪んで見えた。どう見ても普通じゃない。クラスメイト達は一人の例外もなくそう感じたはずだ。
チョッカはサッカー部の方に寄っていくということで、掃除を終えるなり教室から駆け足で出て行った。彼は本当に足が速い。その小太りな体型からは想像できないほど、つまり、クラスでもぶっちぎりの快速だった。大砲玉のような男が出て行った後の教室には、僕と夏山ルリカだけが残る。
「帰ろっか」
今日は家庭教師の日である。僕と夏山ルリカの二人をタケコ先生は見てくれる。
その頃には雨はすっかりと上がっていて、僕らは濡れることなくバス停に辿り着くことが出来た。その間、僕らは無言だった。夏山ルリカもきっと僕と同じように、ゴーキのことを考えていたはずだ。僕はスマホを取り出してLINEのアイコンをタップした。ゴーキのアイコンが上から三番目に表示されている。
僕は試しに「だいじょうぶか?」とメッセージを送る。バスが来るまでの間、暫く僕は画面を睨みつけていたが、いつまでも既読にはならない。そのことだけである種異常事態だ。ゴーキはいつでもスマホを見てるんじゃないかってくらい、一瞬で既読をつける男だ。それが十分近くも、何の動きも見せていない。
「濡れ過ぎて寝込んでるとか?」
夏山ルリカが幾分楽観的な事を口にする。しかし僕は首を振る。
「保健室に連れていかれて、その後どうなったのかどの先生も言わなかった」
担任すら。まるでゴーキなんて見なかったかのように、何事もなくホームルームを終えたのだ。
「ゴーキのあの様子は普通じゃない。先生方もなんかおかしい。それにさ、考えてもみてよ。五月の二日だって、ゴーキは来なかった。でも、先生も何も言わなかった。どころか、出席とるときに名前すら呼ばなくなかった?」
「ええ? それはないよぉ」
夏山ルリカがバスに乗りこみながら言った。僕らは最後部の座席に腰を下ろす。僕たちの後を追うように、ぞろぞろと別の高校の生徒が乗りこんできていた。いつもの光景だ。
「いや、確かに呼ばなかった気がする」
僕は頭の中でチリチリと何かが燃えるのを知覚した。
「相沢、内嶋、江橋、喜里川……」
僕は出席番号順、すなわち男女混合五十音順に名前を読み上げる。そこで夏山ルリカが目を丸くする。
「あれ?」
「なんか足りないだろ?」
「川居……」
「そう、江橋の次が喜里川なんだ」
試しに「相沢、内嶋、江橋、河合、喜里川」と続けて読み上げてみる。
「違和感すごいね」
「だろ」
僕は幾分胸を張って言った。だが、事実は奇妙過ぎる。かれこれ一ヶ月間、その順番で名前を呼ばれ続けていたはずだ。だからいい加減耳に慣れているはずなのだ。なのに本来あるべき順序で名前を呼んでみると、違和感しか残らない。
「でも、そんなことあるわけないしょや。ゴーキはずっとわたしたちのクラスメイトだったんだよ?」
「そうなんだけど、でも、本当にそうだったのかな」
僕の中で何かが警鐘を鳴らす。忘れろ、忘れてしまえ、思い出すな――それはそう言っているように聞こえた。
「なんか怖いな」
夏山ルリカが少しだけ僕に身体を近付けた。傍目には僕らが仲の良い恋人同士に見えるに違いない。違うんだけど――誰にともなく弁明しておく。
「そういえば」
僕が前の座席に座った女子の頭の天辺をぼんやりと眺めていると、夏山ルリカがぽつりと言った。
「わたし、スタバでゴーキ見た」
「いつ?」
「先週の火曜。千紗と約束あった時」
「ああ」
そんなこともあったなと僕は思い出す。五月最初の火曜日、つまり五月一日のことだ。
「でも、ゴーキの奴がスタバとか、そんなおしゃれな奴だったとは思えないんだけど」
「でしょ? わたしもすごく意外で千紗の頭越しに目で追ったんだけど」
「だけど?」
「ゴーキが真っすぐ向かったテーブルに、ほとんど完全な白髪のおじさんがいたのよ」
「白髪のおじさん? おじいさんじゃなくて?」
「ううん。髪を除けばアラサーってところ。不自然なくらいに真っ白な髪だったわ」
ふぅむ。僕はスマホを見た。いつもと変わらないホーム画面がそこにある。
「あれ?」
また通信が切れている。ネットに繋がらない。このスマホ、まだそんなに古くないのに、不具合だろうか。僕は渋々再起動の道を選ぶ。黒い画面にメガネの男が映る。言うまでもなく僕の顔だ。
「で、その白髪のアラサーとゴーキ、どうしたって?」
「白髪のアラサー?」
「言ったろ、不自然なくらいに真っ白な髪のおじさんがいたって」
「は?」
夏山ルリカは怒ったような口調で音を発する。その勢いに思わず気圧される。
「だからさ、スタバにゴーキと白髪の人が――」
「何言ってるの? 今、スタバにゴーキがいるわけないじゃない」
「はぁ?」
ジョークにしては笑えないぞと言って、僕は腕を組む。だが夏山ルリカも腕を組んで鼻息を吐く。
「わけわかんないこと言ってるのはどっちよ、ショーガツ」
「いやいや、今、君が言ったんじゃないか。スタバに――」
「何その悪趣味なジョーク。わたしは何も喋ってないわよ」
何を言ってるんだこいつ。僕は少なからず憤然とする。僕らは互いに口を噤み、腕を組んだ状態で、目的のバス停までを過ごした。
バスを降り、そこから無言で家までの道のりを歩く。大した距離ではない。雨も上がっているから特に不便もない。強いて言えば、持ってきた傘が邪魔なくらいだ。
僕らが家についたのが午後五時ジャスト。いつもならタケコさんは家の前で待っている頃合いだ。だが、今日は来ていなかった。こんなことはこの一ヶ月少々の間で初めてだった。
「おかしいな」
僕らは居間で紅茶を飲むことにする。お互いの沈黙にそろそろ耐えきれなくなってきた時分だった。
「タケコさん、遅いね」
夏山ルリカが呟いたまさにその瞬間に、家の前に赤いWRXが停まった。
ほどなくして「ごめん、おそくなった」と言いながらタケコさんは入ってくる。入ってきて、その瞬間に固まった。タケコさんの視線は夏山ルリカの顔面に固定され、夏山ルリカは居心地悪そうに仰け反った。
「な、なんですか」
「あ、ううん。何でもない。大学に忘れ物したなぁって」
「なんだ」
夏山ルリカは納得したように言うと、勝手知ったる我が家の階段を軽快に上っていく。僕とタケコさんはそれを追う。
「ごめん、ショーガツくん、ルリカちゃん。ちょっと先に行ってて」
タケコさんは少し慌てて階段を降りていく。その左手にはスマホがあった。本日のコーディネイトは大きめのメンズ黒Tシャツに、黒いダメージジーンズだった。左手首で鋭い輝きを放っているごつい時計になぜか視線が吸い寄せられる。
「C……?」
階下からタケコさんの声が、それだけ聞こえた。僕はしばらく階段の最上部にいて、その声に耳を澄ましていた。タケコさんが慌てた表情をしたことが、なぜかひどく気にかかったからだ。
「カエリヤミキ?」
カエリヤ? ……どこかで聞いたような気がする。
「待ちなさい、あなたは」
その一秒後、小さな舌打ちが聞こえた。僕は慌てて自分の部屋に移動する。
カエリヤミキ。
聞いたことのある名前だと、僕は思ったのだった。
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