午後七時を少し回ったところで、僕らの勉強は終わった。終わったと言っても、夜また少し勉強しないとならないのだけれど。忘れかけているが、僕たちは受験生なわけで、それはつまり、一日二時間程度の勉強で足りるはずがないということでもある。もっとも僕は勉強は嫌いではなかったから、四時間程度なら楽勝だ。もともと帰宅部だし。
勉強の間中、タケコさんはどこか上の空だった。それはとても珍しい光景で、三回呼びかけてようやく反応するという、まるで漫画のような状況も何度かあった。タケコさんは頻りにスマホを気にしていて、その神経質な様子に、僕も夏山ルリカもどこか落ち着かない気分にさせられた。
「そうそう、タケコさん。ゴーキがさ、おかしかったんだよ」
「ゴーキくんが? どうしたの?」
タケコさんの目が鋭く光ったような気がした。僕は一瞬息を飲み、そして夏山ルリカの方を見た。夏山ルリカは母親あてにLINEメッセージを作成していた。いつもの光景だ。
「ゴーキの奴がまるで幽霊みたいになってさ」
僕は学校で見たゴーキの変わり果てた姿について説明した。夏山ルリカは気のない相槌を打ちつつ、LINEでのやりとりを続けている。僕の説明を聞いたタケコさんは「ふむ……」と呻いたっきり、腕を組んで動かなくなってしまった。今この空間で動いているのは、夏山ルリカの右手の親指だけだ。
「それで多分、そのまま帰っちゃってさ」
「会話もなく?」
「おはようございます、くらいは言ってたと思うけど、僕の方を見ることもなくて、そのまま先生に連れられて保健室へゴーって具合だよ。でも不思議なのは、先生の誰一人として、ゴーキに触れなかったことなんだ。普通、席にいなかったら『今日休みか』とか言うじゃない? それもなくて」
そこまで言って僕は口を噤んだ。タケコさんが完全に硬直していたからだ。その目はじっと、左手のゴツイ時計に向けられている。僕は夏山ルリカを一瞬だけ見てから、またタケコさんに視線を戻した。
「他にもおかしいことがあって、なんか違和感が」
「違和感――」
タケコさんの目が鋭く光る。僕は思わずまた、息を飲む。
「みんなまるでゴーキのことを忘れちゃったみたいなさ。出欠の時にも呼ばれなかったし。それに、ゴーキを入れて名前を呼んでみると、すごい違和感があって」
「そうそう」
夏山ルリカがスマホから視線を上げる。
「川居が入る余地がないんですよ」
「あ、そうだ」
僕ははたと思い出す。
「夏山ルリカ、先週スタバに行ってたじゃん?」
「またその話?」
眉を吊り上げる夏山ルリカ。
「そこでゴーキを見たって、君は確かに言ったんだ。白髪のアラサーっぽい人と一緒にいたって」
「白髪……」
タケコさんは僕を真正面から見据えた。その眼力に僕は文字通り仰け反った。
「タケコさん、何か知ってる?」
「いえ」
タケコさんらしからぬ反応に、僕はその「いえ」を「YES」と判断した。
「そいつがゴーキに何かしたってこと?」
「わからないけど」
タケコさんは左手の腕時計に視線を落とす。そして、夏山ルリカをチラ見する。夏山ルリカはスマホを手に、僕のベッドで寝返りを打った。
「さて、そろそろ帰らないと。ルリカちゃん、送るわ」
「あ、うん。わかった」
夏山ルリカはベッドから起き上がってスカートをパンと払った。タケコさんもゆっくりとした動作で立ち上がり、そして僕を見下ろす。
「ショーガツくん。何かおかしなことが起きたら、すぐに連絡して」
「おかしなこと?」
「うん、おかしなこと。違和感でも異物感でも何でもいい。それがハッキリする前に連絡して」
何を鬼気迫って言っているのだろうか――僕は少々混乱する。違和感や異物感と言われたって、そんなものそうそうないだろうと思う。しかもハッキリする前にって言われても、そんなんじゃ、僕の思い過ごしや思い込みに付き合わされるってことじゃないか?
「……ハッキリしてからじゃ遅いのよ」
「なんだか怖いこと言うのね」
夏山ルリカが僕の思いを代弁する。そしてカバンを持ち上げながら首を傾げた。
「でも、先生に連絡したら何とかなるの?」
もっともな問いだ。第一僕はこれでも一応男子だし、違和感ごときで女性を呼びつけるわけにはいかない――そんなことを思った。だが、タケコさんは至って真面目な顔で頷いた。
「多分。ところで二人は、カエリヤミキって子、知らない?」
「カエリヤミキ?」
僕らが異口同音に呟いた。そして顔を見合わせる。僕が代表して答える。
「聞いたことないよ」
「そう。ならいいけど」
タケコさんはかなり険しい表情を顔面にはりつけながら、ちっとも良くない感じの口調で言った。
その時、タケコさんのスマホから音楽が鳴り始めた。米津玄師のサンタマリア。僕でもその音楽は良く知っている。米津玄師の名義でリリースした初めての歌だ。
タケコさんは「ちょっとごめん」と言って部屋を出て行く。
「はい、朱野です」
そんな声が廊下から聞こえてくる。僕らは顔を見合わせると、共にドアの所に近付いた。
「嘘、あれは一年前に……」とか、「C的存在も検知されていなかった」とか、そんな言葉が聞こえてくる。だが、僕らにはさっぱり意味が分からない。だが、その中で聞こえてきた「アシッド」という単語が妙に頭に引っかかった。
「アシッドって何?」
夏山ルリカが訊いてくる。僕は頭の中の辞書を引いて、一秒半くらい唸る。
「普通にACIDだとしたら『酸』とかいう意味だけど」
「そんなわけないでしょう。『酸』とか、普通に意味が分からない」
「いや、それは分かってるけど」
「じゃあ何なのよ」
「分かんないよ」
「頼りになんないわね、ショーガツは」
散々な言われようだが、現実問題僕にもさっぱり意味が分からないのだからどうにもならない。文脈すら追えないのだから、意味を推測するのは不可能だ。その間にもタケコさんの声は断続的に続く。
「川居? ちょっと待って」
足音が近づいてきたので、僕らは慌ててドアから離れた。
「ねぇ、ショーガツくん。ゴーキくんって本名なに?」
「川居合気」
「ありがと」
そう言うとまた、タケコさんはドアを閉めて、今度は階段を下りて行った。こうなってしまうと、部屋の中からは盗み聞きが出来ない。僕らはおとなしく部屋で待つことにする。
十秒ほど経ってから、夏山ルリカが口を開く。
「C的存在って何?」
「さぁ。何かの暗号かな」
どこかで聞いたっけ? そんなことを思いながら、僕はベッドに腰を下ろす。
「なんかすっきりしないけど」
僕は夏山ルリカを見る。夏山ルリカは少し不安げに、僕と自分のスマホの間で視線を往復させていた。僕は芝居じみた動作で肩を竦め、言う。
「ゴーキもあんなになっちゃったし、LINEは既読にもならないし、電話も出ない」
「ゴーキ……」
夏山ルリカは難しい顔をして俯いた。
「ねぇ、ショーガツ」
「ん?」
「ゴーキの顔って、思い出せる?」
「えっ?」
何を言ってるんだ、こいつは。
僕は瞬間的に憤慨し、そして狼狽した。
「あれ……」
そんなはずは。
あるはずがない。
しかし。
僕は机の上でぼんやりとしていた自分のスマホを取り上げて、LINEのアイコンをタップした。アイコンは上から順に、夏山ルリカ、タケコさん、母……。
「ゴーキのアイコンがない」
「まさかそんな」
消えていく。
ゴーキの痕跡が消えていくのだ。
僕らの記憶からも、外部の記憶からも。
でもゴーキは紛れもなく僕らの同級生で、こと僕とは一年生の頃からの付き合いがあって……。そういえば五月に入ったばかりの時、還屋と何か話し込んでいたっけ。
「還屋?」
「未来ちゃん?」
「うん、たぶんそう」
あれ、さっきタケコさんが還屋のこと訊いてなかったっけ。
……?
「あれ、還屋さんってどんな子だったっけ?」
「印象薄い子……だったのかな」
いやいや、そんなはずはない。
僕らがあんぐりと口を開けて見つめ合っていると、ドアが開いてタケコさんが入ってきた。
「どうしたの、二人とも」
「え?」
僕らは同時に反応する。タケコさんは一瞬驚いたように口を開け、そして左手の腕時計を見た。それはとてもゴツイ、とてもファッショナブルとは言えない代物だった。だが、戦車に轢かれても壊れないかもしれないというくらいに頑丈そうに見えた。
「ルリカちゃんを家に送るけど、ショーガツくんもついてきて」
「え? なんでめんどい」
「いいから!」
衝撃波が来たんじゃないかっていう勢いで怒鳴られ、僕は圧倒されてしまった。思わず二度頷いて、「わかったよ」だなんて口にしている。
「ねぇ、タケコさん」
タケコさんの愛車、WRXの助手席に収まりながら、僕は厳しい表情のタケコさんに声を掛けた。タケコさんはシフトレバーを操作しながら、「ん?」とだけ声を出す。
「C的存在ってなに?」
「どこでそれを?」
「さっきのタケコさんの電話で……」
「忘れて」
車が動き始める。スムーズな加速をしつつ、夏山ルリカの家に向けて進み始める。僕はそれ以上の質問をすることもできず、ただじっと前を向いて座っていた。
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