WRXは静かに夏山ルリカの自宅から離脱する。滑らかな加速により、夏山ルリカの姿が遠くなっていく。彼女の浮かべていた不安げな表情は、今まで見たことのないものだった。
「ふう」
赤信号で捕まってようやく、タケコさんは声を出した。出発からこちら、ずっと一言も喋らず、ただ険しい目つきで前を見ていただけだったからだ。
「ごめんね、ショーガツくん」
「え、なにが?」
「ちょっと話せないことがあり過ぎてさ」
「C的存在とか?」
「忘れてって言ったでしょ」
それは無茶な注文だ。そんなことを言われれば言われるほど、記憶には深く刻み込まれていってしまう。まして今やそこにスポットライトが当たっている状態だ。逃げられないし、逃がすこともできない。
「訊くけど、違和感とか異物感。ない?」
「うーん、特には」
いや、待てよ? 何もないか?
僕は心の片隅に引っかかる何かに注目しようとする。しかし、特に何のイメージも湧かない。今日もいつも通りの何の変哲もない一日だったはずだ。
「今日、何か変わったことはなかった?」
「うん、たぶん」
あったとしても別に喋るような内容でもないだろう。そのくらい、今日という日の記憶はどうでも良かった。
「あ」
「どうしたの?」
「今通り過ぎた建物、不思議な感じがしたよ」
「不思議な?」
タケコさんは車通りがないのをいいことに、強引なUターンを決める。僕はすぐにその不思議な建物を――見つけられなかった。
「気のせい……だったのかな?」
「ねぇ、ショーガツくん。それってさ」
タケコさんはそこまで言って黙り込んだ。そのあまりにも長い沈黙と、緩やかな加速に、僕はだんだんと不安を覚え始める。
「それって、立方体の建物だった?」
「あ、うん。そう思った」
まさに。
すごく几帳面すぎる立方体の建物が、どどんと鎮座していたように見えたのだ。だが実際には、その立方体があったと思われる場所はビルの解体現場であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。立方体に見間違うような建物もない。
「いい、ショーガツくん。もし万が一、立方体な建物が現れたとしても、絶対に入っちゃダメ。どんな理由があったとしても」
「ど、どうして?」
「どうしてもよ。あなたがあなたのままでいたいのならね」
「僕が僕ではいられなくなるってこと?」
「そう言ったわ」
「でも」
僕は車が再度Uターンするのをぼんやり感じている。今度は僕の家の方向へと向かう。
「タケコさんはどうしてそんなことを知ってるの?」
「私が知っているわけじゃないわ」
タケコさんは緩やかに息を吐く。
「私の父さんが遺してくれたものなのよ」
そのものが何を示しているのかはともかく、タケコさんのお父さんは何か超自然的なモノを知っていたということになるのだろうか。
「もう死んじゃったんだけどね。父さんはとある政府機関で働いていたのよ」
「政府機関?」
僕は問い返したが、タケコさんは、それには答えてくれなかった。
「国家存亡に関わる事態――日本国政府はそう捉えた」
「ええっ。何の話?」
そんな小説やドラマみたいな展開になるなんて、正直に言うと、僕は激しく面食らった。でも、タケコさんの横顔は、冗談を言っている人のものなんかでは断じてなかったし、その口調にも微塵もフィクションの色を感じなかった。
「ねぇ、ショーガツくん。私たちの記憶って、どのくらい確かなものだと思う?」
「どのくらいって……」
僕は腕を組んで考える。
「私たちの行動というのは記憶に支配されているの。記憶を繋ぎ合わせたものが思考で、その思考の中から最適と思われる選択肢を取る。それが行動。つまり、社会というものは、記憶によって構成されているの」
「ええと……?」
「そして、社会というのはつまり総体としての人間のこと。一つの大きな意志とも言えるわ」
「つまり、ええっと、記憶の集合体が社会という一つの生命体の意志であるってこと?」
「ざっくりしてるけど、そういうことね」
タケコさんは適当な道を適当に走る。WRXが低い唸りを上げて道路を蹴立てていく。
「もしね」
タケコさんは尖った声で言った。
「人間社会という名の記憶を入れるための袋があったとするわ。でも、そこに別の袋が生じたとする。その持ち主は」
「C的存在?」
「忘れてと言ったわ」
「無理だよ」
僕は唸る。でもはっきりしたのは、C的存在なるものが、何か悪さをしてるということだ。
「ともかく、その持ち主が、人間社会という名の袋から、記憶を盗み出して自分の袋に入れたとする」
「そっちの袋が大きくなっていくね」
「人間社会は小さく弱くなっていくわ」
タケコさんが呟く。
「そして遠くない未来に、人間社会という名の袋は空っぽになり、新たな袋が人間社会に取って代わる。これを私たちは漸近現象と呼んでいる」
「私たち?」
「そう、私と父さん」
その答えを聞いて、僕はしばらく沈黙する。ヘッドライトに照らされた一時停止の看板が妙に明るく、生々しい赤に見える。
「漸近ってことは、くっつかないってこと?」
「相容れないってことよ」
タケコさんは強い口調で言った。
「人間社会は新たな存在に取って代わられた社会に隷属する意志体として存続し続けるでしょう。多分、今と何ら変わらない形で」
「記憶がなくなるんだよね?」
「そう。でも、記憶がなくなったことにすら気付かないのだから、その『記憶が無くなったという現象』は存在しないってことになるわ」
それもそうか……。
「でも、記憶が抜けたら違和感くらいはあるんじゃ?」
「あるわ」
瞬間的に応答するタケコさん。
「でもね、それはほんの一瞬。すぐに脳が勝手に補完してしまう。都合の良い現実を創発――創り上げてしまう。人間の脳って、多かれ少なかれそういう能力を持ってるの」
「記憶が抜けた場所を勝手に補うってこと?」
「そうよ。だからさっき、違和感や異物感があったらすぐ教えてって言ったの」
「なるほど」
信号が黄色から赤になる。夜闇を切り裂くLEDの鮮烈な赤が目に刺さる。
「でも、僕にはまだ信じられないな。そんなフィクションみたいな話、そんなにあるわけないじゃない」
「でもこれが、内閣府情報調査室直々の、いいえ、もっといえば官房長官直々の対策プロジェクトの一端であるという事実を耳にしても、フィクションだと思えるかしら?」
「官房長官……」
「そう」
WRXが再び走り出す。
「二〇〇一年四月二十日、CIROが動いた。私が三歳の頃ね」
「さいろ?」
「内閣府情報調査室のことよ。Cabinet Intelligence and Research Office」
タケコさんは流暢な英語を含めて淡々と返す。
「その時の官房長官は、吹田信夫。でも、その時の林義男内閣は、その僅か六日後に転覆したわ。でも、その次の大泉小太郎内閣でも、官房長官は吹田信夫が続投したのよ」
「それは中学でやった気がする。久々の長期政権になったんだよね、大泉内閣は」
「そう。でも大事なのは官房長官の方」
「吹田信夫?」
「そう」
「その新しい記憶の袋とかいうのに関係して?」
「もちろん」
ふむ。僕はもっともらしく頷いた。その実、事態が理解できているとは言い難かったんだけれど。
「時の政府は、このCIROの活動継続性をこそ最大の要件にしていたわ。内閣総理大臣なんてどうでも良かったけれど、吹田信夫官房長官を中心とした本件への活動については止めるわけにはいかなかった。野党側はそこも含めた総辞職を求めたけどね」
「タケコさん、なにもの?」
「私じゃなくて、私の父さんがなにものであったのか、という質問の方が的を射ているわね」
「じゃぁ、タケコさんのお父さんってなにもの?」
「それは言えない」
タケコさんがハンドルを左に回す。僕の視界に、その左手の腕時計が入ってくる。なんてごつい腕時計だ。僕は思ったが、考えてみればこんなデカブツが今まで目に入っていないはずがない。もしかすると、これも記憶の云々、だろうか。
「タケコさん、見て」
「見えてる」
真正面百メートルとない所に、誰かが立っていた。このまま進めば確実に死亡事故になるだろう。WRXは滑らかにスピードを落とし、その男の目の前で止まった。錯覚でも何でもなく、まぎれもない白髪の男。
「白髪の男……」
何かのキーワードだったような気がするが、思い出せない。タケコさんは小さく舌打ちすると、後部座席から警棒のようなモノを取り出してドアを開けた。
「ショーガツくんは中にいて」
「そういうわけには」
「いいから」
タケコさんは手にした黒い棒を引き延ばす。長さはちょうど一メートル程度で、さながら刀のようだ。僕は助手席の窓を開け、せめて会話だけでも聞き取ろうと耳を澄ます。
「道路の真ん中で何してるの」
酔っぱらいの類には見えない。白髪の男はただじっと、WRXの方を見つめて立っていたのだ。明らかに不審な人物の不審な挙動である。
内閣府情報調査室とか官房長官とか、そういう話をしていた直後だっただけに、ただならぬ事態を連想した僕だったが、それは取り立てて異常というわけでもないだろう。
「待っていた」
「私を?」
「お前たちをだ」
「あなた、まさかさっき私に電話してきた人?」
「そうだ」
白髪の男は頷いた。猫背気味で、ネコ科の動物のような目が爛々と輝いている。黒いスーツに白いシャツ、そして血のような色の細いネクタイをつけていた。両手はスラックスのポケットに突っ込まれている。交戦の意志はない――態度ではそう示していたが、その表情を見るからに、とてもそうとは思えない。
「とすると、ACID計画の――」
「Cが再び活動を再開した」
タケコさんの言葉に割り込んで、男は言った。
「我々の邪魔をしている場合ではないぞ、朱野直史の娘」
「武よ。覚えておきなさい」
「知っている」
男は首を振る。その鋭利な瞳は僕の方を見ていた。
「薫理先生の娘であることもな」
「母さんのことを知ってるの?」
「俺の大学時代の担当教官だからな」
タケコさんのお母さんって大学の教授かなんかなのか。僕は漠然とそう思う。
「それはそうと、朱野武。お前、自分の立場が分かっているのか」
「かれこれ四年目だもの。父さんがいなくなってから」
「お前も同じようになりたくなければ、あとは我々漸科研に任せて手を引け」
「冗談じゃないわ。あなたたちACIDの計画には、父さんも反対していた。それはあまりにも非人道的だったからよ」
「それ以外、C的存在には抗し得ない」
男は確信を持った口調でそう言う。
「私が反対しているのは、それはなんのことのない焦土作戦だからよ」
「問題でも?」
「あるわ」
タケコさんはいつになく強い口調で断じる。
「Cの連中に記憶を渡さないために、人間の記憶を破壊する」
「奴らに餌を与えないためだ。餌がなくなれば、混沌は去るだろう」
「破壊された記憶の持ち主の権利はどうなるの」
「権利?」
男は嘲笑を浮かべた。無性に腹の立つ笑みだった。
「彼らにも、彼らの関係者にも、何の影響も出はしない。なぜなら、全ての痕跡が消えるのだからな」
「消えた当事者にしたら――」
「人間というのはな」
男は白髪をゆらゆらと揺らした。
「他人からの観測によって初めて存在する。あらゆる観測の網からこぼれ出た人間は、そもそも存在しない。本人の主体も消え失せている状態なのだから、その人間は徹頭徹尾、存在はしないことになるだろう」
「存在していたものを消し去るということには変わりないじゃない」
タケコさんは両手で黒い棒を構えた。今にも殴りかからんばかりの態勢だ。だが、白髪の男は一向に気にした風もない。
「ならば朱野武。それ以外にどうやってあの這い寄る者どもを撃退できるというのか。このままでは我々は地球的総体の地位を奪われ、被観測者に甘んじることになる。記憶を抜かれたずた袋状の何かになってな」
「それは……」
タケコさんは言い淀む。
「まさか、C的存在と渡り合えると、本気で考えてはいないだろうな」
「だとしても、殴り合わなきゃ分からないことも――」
「忘れるなよ、朱野武」
男が割り込んだ。
「官房長官の命令さえあれば、お前など簡単に消せる」
「父さんを消したようにはいかないわよ、ACID」
タケコさんは胸を張る。
これはひょっとしてだけど、僕ってばとんでもない事態に巻き込まれてるんじゃないか。官房長官だの内閣なんとかだの、そんなものには一生縁なんてないだろうと思ってたのに。それどころかこの殺し屋同士が遭遇しちゃったみたいなシチュエーションって何なの、と。
「お前を全く孤立させることすら可能なんだぞ」
「それは別に構わないけど」
タケコさんはそう言って僕を見た。
「でもショーガツくんに手を出したら許さない」
「なるほど」
白髪の男は陰気な顔で僕を見て、ツイと口角を上げた。
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