なんだか大きな喪失感を感じながら、僕は窓の外をぼんやり眺めていた。ぽっかりと何かが抜け落ちてしまったような、そんな薄ら寒さを覚える五月九日水曜日。
昨夜は夏山ルリカを家に送るのに一緒についていき、タケコさんとはそのまま軽くドライブをした。思わず藻岩山にまで行って、日本新三大夜景の一つ、札幌の街並みを一望してきたのだ。
「まるでデートだね♡」
タケコさんはそう言って僕の左腕に右腕を絡めてきた。タケコさんの大きなおっぱいが僕の肩にふにっと当たって変形したのがわかって、僕は思わず腕を引いた。タケコさんは諦めずに僕の後ろから覆いかぶさるようにしてくる。僕の肩甲骨の少し上あたりに、タケコさんの柔らかい何かが当たる。それは僕の心臓を激しく高鳴らせたけれども、僕は色々と理性で押しとどめた。タケコさんの髪から漂う甘い香りが、夜景を見下ろす僕をクラクラとさせた。
「長崎、神戸、そして札幌。日本新三大夜景都市の中に、函館はなかったのよね」
「それ、聞いたことがあるよ。確か、二〇一五年以前の三大夜景って、五十年くらい前に決まったものだったって」
「そう。それで、いろいろやった結果、函館は四位に陥落。今だ成長を続ける札幌市が二位にランクインしたのよ。一位は長崎ね」
今後は三年ごとに投票および更新がある。確か今年、二〇一八年が更新年だったはずだ。というのを夕方のテレビで言っていた気がする。
「次も札幌、ランクインするといいねぇ」
「あんまりわかんないけど」
僕は素直に言う。
「なんかそういうの、大人が勝手に騒いでるだけって感じもする」
「はは」
タケコさんらしからぬ笑い。
「それは言えるかもね。でも、それに対してひたむきに努力をしてる人がいるから、成果がある。それは笑っちゃいけないよ、ショーガツくん」
「笑ったりはしないよ」
僕はタケコさんの呼吸を耳元に感じながら答えた。何故だろう、なんか胸が詰まる。言葉が出なくなる。ただ目の前には藻岩山から見下ろす札幌の大河のような金色の光が揺らめき、背中にはタケコさんの柔らかな香りがあった。晩春から初夏に遷移するこの時期の独特な山の風が肌を撫でる。
「僕にだって、この景色が綺麗な事はすごく分かるし、全国で二番目というならそれは嬉しいよ。僕の街だからね、札幌は」
「そう。この街は私たちの街なのよ」
タケコさんは力を込めて言った。その落ち着いた声が耳にくすぐったい。
「ルリカちゃんもつれてくれば良かったかしらね」
「なんで?」
「だって、ルリカちゃんのこと好きなんでしょ?」
「はぁ?」
僕は面食らって振り返った。ていうか、そこにはおっぱいがあって、僕の頬がおっぱいにめり込む形になった。
「あん♡」
「へっ、変な声出さない!」
周囲には他にも夜景を見に来た人たちが大勢いる。この道はいつだって混んでいるんだそうだ。
「こうも暗いと、ショーガツくんの蔑むような目がよく見えないのが悲しいわ」
「マゾですか」
「誰でもいいってわけじゃないわよ」
「だったら困ります」
「ショーガツくんだけ、特別♡」
完全に翻弄される僕。そして僕は、このピンク色の荒波に抗う術を知らない。
「タケコさんは彼氏とかいないの?」
「いたらこんなことしてないわよ」
「そうなんだ」
まぁ確かにそうなんだろうけど、でも、タケコさんはどこからどう見ても美人だし、頭だっていい。ちょっと変態なところはあるけど、それだって多分魅力なんだろうと思う。僕は……強いて言うならちょっと年齢差が気になるかな。おなじくらいの年齢だったら、案外アリだったかもしれないな、なんて思ったりする。けれど、僕とタケコさんが十年後も一緒にいるとか、ちょっと想像が出来なかった。
「ルリカちゃんとは付き合ってるわけじゃないの?」
「付き合ってる?」
僕は眼鏡の位置を直しつつ、タケコさんの隣に並んだ。輝く街並みを目に焼き付けておきたいと思ったからだが、同時に、その街並みを眺めるタケコさんの横顔も見たい――なぜか無性にそう思った。
「僕らは付き合うとかそう言うのじゃないと思うけど」
「普通、女の子があんなに無防備にはならないわよ」
「確かに無防備だけど、それはきっと僕を異性とは思ってないからじゃない?」
「そうかしら」
タケコさんはフッと微笑む。
「彼女でも親友でもいいけれどね。あの子はきっと、ショーガツくんがピンチになったら絶対に助けに来る子よ。ショーガツくんはどう?」
「ぼ、僕だってそうだよ。夏山ルリカは、そ、そうだな、ええと、僕にとっては大事な友人だから」
「ふふふ」
意味深に笑うタケコさんに、僕はフワッと心が熱くなる。
「でもね、覚えておいて。ショーガツくんだろうが、ルリカちゃんだろうが、私はあなたたちを守るわ」
「守るって、何から?」
「……這い寄ってくる連中からよ」
タケコさんの声が低くなる。
「這い寄る混沌みたいな言い方するね」
そのオカルトじみた言い方が可笑しくて、思わず僕は笑いながらそう言った。だが、タケコさんは微笑まない。
「この世界にはね、あまりにも隠されていることが多過ぎるし、隠れているものも多過ぎる」
「タケコさん……?」
「ん、変なこと言っちゃったね。気にしないで」
タケコさんは少し鼻をすすると、愛車に乗ってしまった。僕も慌てて助手席に乗りこんでシートベルトを締める。夜景には名残惜しさすら覚えたけれど、こんな所に置いて行かれるのは御免だった。
「虫がまだそんなに出てないからちょうど良かったわねぇ」
「うん。真夏だったら凄そうだもんね」
「ええ」
タケコさんはアクセルを少しだけ踏み込んで、ゆっくりと道を下り始める。夜景夜景とありがたがるけれど、その光源に近付くと、それは夜景という総体から、一つ一つの目的を持った個に変わる。ビルの窓から漏れる灯りだったり、あるいは反射光だったり、看板の明かりだったりもする。それは酷く雑多で身勝手なモノであるのに、遠くから見る、ただそれだけの一手間で、美しい夜景へと姿を変ずる。たとえその中に、どんな下世話な内容のネオンが混じっていたとしてもだ。
「もしかすると」
僕はうっかり口に出してしまう。タケコさんが「うん?」と僕に続きを促したので、僕は言葉を続けざるを得なかった。
「個々の意味や姿なんて見えない方が、綺麗に見えるのかもしれないなぁって。群れとして、全体をぼんやり眺めている方が美しいのかなぁって」
「そうね」
タケコさんは短く同意してから、「でもね」と続けた。
「そこに総体としての意味が、本能が、目的があるから、それらは群れになっても美しいのよ。たとえ個としてどうしようもないモノが混じっていたとしても。それにね、雑多な明かりの集合体が美しい夜景になっているのかもしれないけれど、その中には本当に美しい輝きを放っているものだってある。それを忘れてはいけないわ」
「ああ、うん」
僕は何となく頷いた。
「全部が全部綺麗なわけでも、全部が全部どうしようもないものというわけでもない――そういうこと?」
「そういうこと」
大人の横顔で、タケコさんは肯定する。僕は暗い坂道に吸い込まれて行くような気分になりつつ、でも、タケコさんが運転しているのだから大丈夫だろうという根拠のない安心感に身を任せていた。
「ねぇ、ショーガツくん」
「はい?」
「ショーガツくんからは、この記憶もなくなっちゃうのかな」
「え?」
何を言いだしているんだろうと、僕は訝しむ。
記憶がなくなるだなんて、そんなフィクションライクなことが起きるはずがない。
「僕の記憶がなくなるとか、そんな夢の世界でもあるまいし」
「そっか」
タケコさんは何故か重苦しい息を吐いたのだった。
そんな具合に昨夜のことを思い出しつつ、僕は教室に入ってきたチョッカを何とはなしに眺めていた。
「おはよう、ショーガツ」
「どうしたんだい、テンション低いじゃないか」
「ショーガツだってグダグダじゃないか」
チョッカは僕の前の席に座った。この席の持ち主は還屋未来であるが、あまり学校には来ない。だからチョッカは気楽に座る。
いつもは快活に動き回る大砲弾のような男なのだが、今日は明らかに調子が悪そうだった。声に張りがないし、目にも力がない。きっと僕も似たようなモノだったとは思うけれど。
「あのさショーガツ、一つ訊いて良いかな」
「どーぞ」
「お前、夏山さんと付き合ってるのか?」
「ええ?」
「だから」
「質問は理解した。答えとしてはノー」
だと思う――という部分は封印しておく。正直、昨日のタケコさんとの会話で、僕の中ではよく分からなくなっていたからだ。あの会話の翌日にそんな話題が出てきたので、僕は正直言って面食らった。そういうことだ。
「そうか、良かった」
そう言うチョッカの顔を見て、僕は何故か心底不安になった。
いやいや、待てよ。何故かじゃない。その不安の原因は明らかじゃないか。この状況、どう考えてもチョッカが夏山ルリカのことが好きで、もし僕の答えがノーだったとしたら告白の一つもしようとしているということじゃないか。
ああ、でも、夏山ルリカがチョッカを選ぶと言うのなら、僕にはそれをどうこうする権利もないし。それで夏山ルリカが幸せになると言うんだったらなおのこと、僕にそれを阻害する権利はない。
「俺、夏山さんに告白しようと思う」
「あ、ああ、そうか」
僕は頷いた。
心の動きを隠すために、僕は敢えて大きく頷いた。
コメント