LC-03-002:記憶のホログラム

ロストサイクル・本文

 その日、夏山ルリカは僕と一緒には帰らなかった。部活に寄ったというわけではないだろう。チョッカは無事に告白できたのだろうか。夏山ルリカはどういう返事をしたのだろうか。僕はバスの中でも無性に落ち着かなかった。苛立っていたと言っても良い。思わず叫びたくなるような、そんな胸のゾワゾワ感が、この上なく不愉快だった。何度かLINEの画面を開くも、何と書いたら良いかわからず、結局ホームボタンを押してしまう。

 はぁ……。何やってんだろ。

 僕はバスを降り、思わず駆け出したくなり、けれど足が上がらず断念する。遠くで雷が鳴る音が聞こえたと思ったら、突然雨が降り出した。土砂降りだ。カバンの中に折り畳み傘は入っていない。何故なら今日は、終日晴れの予報だったからだ。

「クソ天気予報!」

 僕は悪態をつきながら、自宅へと走る。

 次の角を曲がったら自宅というところで、僕は足を止めた。雨は変わらず降っていて、一瞬ごとに服が質量を増していく。

 道路の真ん中で、まるで僕を待っていたかのように、白髪で猫背の黒尽くめの男が立っていた。白い前髪から水が滴り落ち、その全身は完全に濡れていたが、男は気にする素振りもない。その深く暗い目は僕を真正面から捉えている。僕はまるで蛇に睨まれた蛙のような気分になっていた。完全に足が竦んでいる。

 男はゆっくりと動き出す。僕の方へと向かって。

「奴らは確実に近づいてきている」

 確かに男はそう言った。この場にはその男と僕しかいない。そして男は僕の方へと歩いてきていて、その目は僕を真っすぐ捕まえている。僕以外に向けて言った言葉とは思えなかった。

「朱野武には気を付けろ」
「どういう意味?」

 かすれた声で僕は訊く。

「社会を救えるのは俺たちしかいない。お前たちは政府に逆らうな」

 男が僕とすれ違う。僕はその間ずっと硬直していた。

「朱野武が生かされているのは、たまたまだ。官房長官の命令一つで吹き飛ぶ命だ」
「あの人に何かするつもりですか」
「いや」

 男は僕を振り返り首を振った。

「今はまだその時ではないということだ」
「あなたは何者ですか」

 僕のその質問は予想外だったのか、その白髪の男は一瞬硬直した。

宝生ほうしょうだ。覚えておけるものならな。あいつは我々の計画を邪魔している。CIROとしても頭の痛い奴だ」
「CIRO……内閣府情報調査室……」

 だったっけ?

「そうだ」

 男は、宝生は肯定する。

「あいつといると、ろくな事にならない」

 ほんの一メートルの距離で、僕と男は向かい合う。道路のど真ん中で。

「あいつから離れろ。さもなくばお前は失い、失い、失い続けるだろう」
「僕を、脅すつもりか」
「脅す?」

 心外だと言わんばかりに男が目を見開いた。

「これは警告だ。国家からの警告だ。そして、俺個人からの忠告だ」
「従わなかったら僕は」
「消えることになる」
「消える……」

 一瞬、僕の頭に誰かの顔が浮かんだ。だけどそれは曖昧で不鮮明で、到底誰かと判別できるようなものではなかった。豪雨がアスファルトを叩く音がバチバチと響いている。それは僕の内耳の中でも跳ね回る。それはひどく耳障りだった。

「お前はこの世界が変わろうとしているのを感じないか」
「世界が変わる?」
「二十一世紀に入ったその頃以来、社会はじわじわと改変され始めた。いや、この表現は不正確だ。人間社会はその時になってようやく、改変され続けてきていたことに気が付いた」

 男はわけのわからない事を言った。僕は唾を飲む。髪がべったりと顔に張り付いている。

「当時の官房長官、吹田信夫は、その事態と対策を研究するべく、漸近科学研究所を設立した」
「漸近科学……?」
「通称、漸科研。人間に敵対する、通称C的存在の侵略を食い止めるために生まれた組織だ。その漸科研が打ち立てた、C的存在への対抗措置、それがACIDだ」
「ACID……」

 それはいったいどういうものなんだと聞こうとしたその時、僕の前に僕の影が鋭く伸びた。後ろから車が来たのだ。僕は慌てて歩道に駆け上がる。しかし、宝生は微動だにせずに目を細めて立っていた。

「ショーガツくん、乗って」
「タケコさん!」

 僕は一も二もなく、タケコさんのWRXの助手席に飛び込んだ。

「何もされてない? 怪我してない?」
「大丈夫。濡れただけ」
「よかった」

 タケコさんはアクセルを踏み込んだ。WRXはまっすぐに宝生に突き進む。

「タケコさん!」
「見ていて」
「轢いちゃう!」
「大丈夫」

 ぐん、と、宝生の姿が迫る。僕は目を閉じることさえ出来ずにただ見ていた。

 そのコンマ数秒後、車は宝生に激突したように見えたが何の衝撃も感じなかった。

「え?」
「あれはただのホログラムみたいなものよ。私には見えていないもの」
「ええっ?」
「あなたの記憶に作用して生み出された幻覚みたいなもの。……とすると、そうか」

 タケコさんは唇を噛んだ。

「させないから」
「させない?」
「あなたを消し去らせたりはしない」

 タケコさんはイヤにハッキリした口調でそう言ったのだ。

「あの、タケコさんが何を言ってるかさっぱりわからないんだけど……。ACIDとかC的存在とかって、なに?」
「忘れて」
「無理だよ」

 僕は首を振る。あわや人を轢いてしまう映像を見せられた後だ。なおさら意固地にもなる。それに記憶に投影されたホログラム? そして、それに気付いたタケコさん。僕にはなにもかも、わけがわからなかった。

 僕の家に着くとすぐに、タケコさんは僕にシャワーを命じた。いつもなら「一緒に入ろ♡」とか言ってくるところだが、今日はそれはなかった。それどころかいつになく険しい顔をして、リビングのソファでまるで彫像のように固まってしまった。話しかけても反応がないので、僕は仕方なくバスルームへと入る。手早く済まそうと、気持ちが急ぐ。

 シャワーから上がると、タケコさんはやはりあの険しい表情のまま、ごつい腕時計のようなものを見つめていた。銃弾すら受け止められるんじゃないかっていうくらいに分厚い腕時計だ。もはやバックラーである。

「タケコさん、そんな時計してたっけ」
「いつもしてるよ」

 少し怒ったようなタケコさんの声。僕にはなぜ怒られてるのか、さっぱり心当たりがない。タケコさんは小さく溜息を吐くと、腕時計をはめなおし、今度は自分のスマホをバッグから取り出した。

「勉強、しようか」
「うん」

 僕は髪を拭きながら答えを返す。タケコさんは立ち上がり、僕の背中を軽く押す。僕は促されるまま先を行く。

「ねぇ、タケコさん」
「なに?」

 階段を上りながら。

「タケコさんと僕って、どこで会ったんだっけ。家庭教師決まる前に会ってたよね」
「ああ、バス停で?」

 そうだ、バス停だ。僕が並んでいると、妙に近い距離で隣に立つ女性がいて。

 いや、でもそれはおかしい。僕はほとんど毎日、夏山ルリカと一緒のバスに乗っていた。夏山ルリカが部活の日も、僕は図書室に残って勉強したりしていたんだから。

「おかしくない?」
「なにが?」

 階段を上りきる。

「僕とタケコさんがバス停で出会って、しかもお互いにインパクトを残すような体験なんて、できないと思うんだ」
「そうかな?」

 部屋の扉を開けながら僕が言うと、タケコさんは一瞬だけ足を止めた。

「でも、私はバス停にいたあなたを可愛い男子だと思ったわ。隣に立ったのも、執拗に連日隣に並んだのも、事実よ」
「だって僕と一緒に夏山ルリカもいたはずだ。僕はほとんど毎日夏山ルリカと帰っていたからね。だから、そんな怪しい人がいたら、夏山ルリカのことだから、絶対に話題にしたと思う。でも、夏山ルリカはそれに気付かなかった」
「そうね、それはおかしいわ」

 タケコさんは頷いた。その頷きの意味が分からないまま、僕は部屋に入ってデスクチェアに腰を下ろした。指定席だ。タケコさんはそんな僕の後ろにそっと立つ。これもいつものことだ。

「タケコさん、だったら、僕たちはどうやって出会ったの?」
「出会ったのは紛れもない事実。じゃなかったら、私が今ここにいる事に対する整合性からして取れなくなる」
「そうかな」

 僕は肘をついてタケコさんを振り返る。タケコさんはほとんど無表情だった。天井灯を背負ったタケコさんは、まるで後光を背負っているようにも見える。だが、顔面は影に落ちている。

「タケコさんは家庭教師先を探してた。うちの親がたまたま見つけた。それで良くない?」
「違うわ」

 タケコさんは首を振る。

「私は今年度からは家庭教師を辞めることにしていたもの。やるべきことが終わったと思っていたから」 
「やるべきこと?」
「そう」

 短い肯定文の中に、深い溜息が混じる。

「私も終わったと思いたかったのかもしれないわ」
「例のC的存在とか、ACIDとか?」
「……そう、ね」

 僕はもう勉強どころではなく、タケコさんも課題のプリントを出そうともしない。座っている僕と、立っているタケコさん。その二つのオブジェクトがしんと静まり返った部屋の中にあるだけだった。

「ACID計画はね」

 五分ほど時間が経過してようやく、タケコさんは言った。

「人間を救うための計画と言われて、それの研究のために漸近科学研究所が作られたわ。当時の官房長官、吹田信夫の指揮下でね。でも、その実態はC的存在に対する焦土作戦でしかなくて、人類にも多大な損失を計上しなければならない計画だった」
「多大な損失……?」
「そう」

 タケコさんは僕のベッドの端に腰を下ろした。デニムのスカートから覗く膝と、僅かばかりに見えている太腿の白さが鮮烈だった。タケコさんは腕を組むと、少し前かがみになって僕を見る。その掬い上げるような視線は、僕の目を真っすぐに射抜き通している。

「C的存在に餌を与えない。ACID計画はC的存在に喰われるであろう人間を事前に破壊する計画」
「破壊……?」
「そう。C的存在はあらゆるところにいる。C的存在は常に人を狙っている。人間社会という総体の構成要素を、次々と深き淵に移し落としている。私はそれを防ぎ、同時に、ACID計画を阻止するために動いているの」
「タケコさん、何者……?」
「私は……」

 僕の問いに答えようとして、タケコさんはしばらく沈黙した。

「父さんのかたき討ちをしたいと思っているだけの女子大生よ」
「敵討ち……」
「だから、政府には目を付けられている。ACID計画はCIROによる国家安全保障上の最優先事項。二〇〇一年に最初のC的存在による影響が初めて確認された。それによってその対策本部として、漸科研――漸近科学研究所が組織され、同時にACID計画が動き始めた。当時はまだACID計画に否定的な関係者が大勢いて、その人たちの工作によって、手動を取っていた吹田信夫官房長官は辞任に追い込まれたわ。いわゆる年金未納問題の発覚と言うやつね。二〇〇四年のことよ」

 政治的スキャンダルに偽装されて……?

「ACID計画の人体実験が初めて実行に移されたのは、二〇〇五年の十二月三十日。時の内閣官房長官は、高部信二たかべしんじ
「今の総理大臣だ」
「そうよ。そしてその日は、一人の人間が全ての記憶を破棄させられた日」
「その人は……どうなったの?」
「文字通り全ての記憶を失った。そこから立て続けに何十人と、ACID計画の犠牲になったわ」
「どうやって?」
「さぁ、そこまでは」

 タケコさんは首を振る。

「私も父さんから聞いただけだからね。ただ、その計画は相当に無理があった。人の記憶を完全に失わせることはできることはできたんだけど、影響範囲はそこにとどまらなかった。精神が崩壊してしまったり、暴走してしまったり……とにかく人としての権利を蹂躙されたというわけ。しかも、莫大なコストをかけてね」
「コスト……」
「そう。漸科研の中でも人権派と呼ばれた人たちは、それでも影響を最小限にする研究を進めるべきだと声を上げた。人間を守り、かつ、C的存在に餌を与えるなということね。そのためにはある程度の記憶の欠損が生じたとしても仕方ないと言っていたとも言えるんだけれど」

 僕は頬杖をついて唸る。タケコさんは続ける。

「でもそれにはさらに甚大なコストがかかった。研究費も嵩みに嵩んだ。外交機密費と官房機密費の流用だけでは賄いきれない金額になった」
「機密費?」
「そういうお金が政府にはあるの。使途を公表しなくても良いお金」

 タケコさんは足を組む。内腿がちらりと見えて、僕はうっかり目を逸らす。

「そこで政府は気が付いた。存在を消してしまえば、記憶を消すというまどろっこしいことをしなくてもよくなるということに」
「存在を……消す?」
「ありていに言えば抹殺するということよ。C的存在に目を付けられた人間を、その機先を制して抹殺する。その餌となる記憶を、持ち主諸共消し去ろうということよ。ACID計画はだんだんとそっちの方向へと舵を切り始めた」
「そんな」

 僕は息を飲む。

「政府の力を持ってすれば、人一人を痕跡も残さず消し去るのは難しくないのよ」

 そうなんだろう、きっと。でも……。

「C的存在に目を付けられたって、どうしてわかるの?」
「どうしてかしらね」

 タケコさんは首を振る。

「タケコさんは分かるの?」
「分かるわ」
「どうして?」
「それは分からない」

 そうなってくると、僕にはますますわからない。
 
「でも、あなたは、狙われている」

 タケコさんは僕をまっすぐに見据えて言った。

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