LC-04-002:未来を決める

ロストサイクル・本文

 彼らの狙いは――。

 その声は暫く止まった。嗤い声と共に。

「誰なの」

 僕は左手で握りっぱなしになっていたナースコールのボタンを押し込もうとした。しかし、指が動かない。まるで凍り付いてしまったかのように、ピリピリとした痛みと共に、僕は身動きができなくなっていた。少女の声はひとしきり嗤ってから、悠然たるトーンで言った。

「私たちは遥かいにしえの時代から、この世界に在る。そんな私たちが今さらパラダイムシフトなんて望むかしら。そもそも、そんな野望を持つのだとしたら、人間なんていう後発の意識体に支配者の地位を明け渡すなんてことがあるかしら?」
「あなたは」

 タケコさんは僕の右手を強く握りしめる。その手がじっとりと汗ばんでいるのを感じた僕は、なんだか落ち着かない気持ちになる。

「あなたは、還屋未来ね」
「それは私の一つの名前に過ぎないけれど、あなたの知る固有名詞の一つとしては正解をあげるわ」

 その声は唐突に位置を変えた。扉とは反対側の、つまり、窓辺にあった。学校の制服を着た還屋は、窓に寄りかかるようにして立っていた。

「その子の着眼点は大したものだと思うわ」

 還屋は――その本質が何であるかはともかく――僕を見て嗤いかける。

「這い寄ってきているのは私たちではなく、人間の方なのかもしれない」
「漸近……」

 タケコさんがぼんやりと呟く。還屋は頷く。

「漸近科学研究所のそもそもの始まりは、私たちに対抗する術を研究するためではなくて、私たちそのものを研究する――つまり漸近するためのもの。その結果としてACID計画が生まれたり、宝生が登場したりとまぁ、いろいろあったのだけれど、結局彼らはある意味公式に、他人の記憶を消すという禁忌の研究への足掛かりを得た」
「つまり、漸近なんとかって研究所は、君たちC的存在を利用した?」

 僕は思わず前のめりになって尋ねた。傷口はそりゃもう激しく痛むが、今はそれどころではなかった。なんとかっていう脳内物質が僕を興奮させていたのかもしれない。

「そういうこと」

 還屋は「ふふ」と嗤いながら首肯する。

「朱野武、あなたの父は、それに気付いて、だからACID計画に執拗に反対した。その結果、消されたのだけれど、そのBOWシステムをあなたに託した」
「……あなたは何をどこまで知ってるの」
「私は何でも知っているわ。人間の知りうる事は全て。もっとも、それをどこまで開示するかは、私の匙加減で決まるのだけれど。そうね、と言い切ってしまっても良いでしょうね」

 明快に言い切る還屋の黒い瞳が僕らをぎょろりと見た。

「ショーガツくんのクラスをターゲットしたのは、あなたなの?」
「そう。私。あなたを誘い出すために」
「私を……?」
「あなたは私たちとACIDの活動終息に伴って、活動をやめてしまった。再び動かすためには、このくらいの仕掛けが必要だと判断したのよ、私は」
「活動終息?」

 僕は思わず口を挟んだ。

「そう」

 還屋は小さく頷いた。

「私たちは、

 その言葉の意味が、僕にはわからなかった。だが、それは極めて看過し得ない事態だということは分かった。というのは、タケコさんが唇を戦慄わななかせていたからだ。

「まさか、そんな。でもそれは記憶の消失伝播の話、よね?」
「いいえ」

 還屋は「それだけではないわ」と微笑する。 

「あなたの父が可能性を訴えていて、でも、CIROによって否定された一つの可能性。でもね、答えを言うと、私たちはのよ」
「でも、今までは――」

 その四文字熟語が表す意味は、僕にもわかる。背中が薄ら寒くなり、僕はタケコさんの手を握る手に力を込めた。還屋は得体の知れない微笑を見せて、「種は撒いた」と言った。

「バイオハザードならぬ、メモリハザードはもう終焉の域にあるのよ」
「そんなはずない。あなたたちC的存在の及ぼせる影響は……」
――私はさっきそう言ったわ。あなたたちが掴んでいる情報のほとんど全ては、私による私のための情報リークの結果に過ぎない」

 タケコさん、どういうことなの? ――いまいちついていけていない僕は、そう説明を求める。タケコさんは擦れた声で「あのね」と応じてくれる。

「C的存在は、つまり、ミミトヤ以外にも……」
「ミミトヤ? ああ、あいつね」

 還屋が頷く。

「最初はあいつ一人だったかもしれない。もっとも、私も最初からいるのだけれど。でも、人は次から次へとあいつに接触した。あいつもそれを拒まなかった。それが私たちの存在意義に繋がるものであったから」
「存在意義?」
「そう。その目的については開示する必要を感じないのだけれど、ともかく人間たちに接触するのが私たちの目的であり、手段なのよ」

 律義に答えてくれる還屋。僕は唾を飲む。

「それで、潜伏期間ってことは……」
「そう、は指数関数的に増えていく」

 そして――。

「そして、一気に発症する」
「そんな……」

 タケコさんは僕のベッドに手をついて、かろうじて身体を支えているという状態だ。僕はその手を握りなおす。タケコさんは首を振る。

「そうだとすると、今までの私の……父さんのしてきたことは」
「無駄だったと、言うわけよ」

 還屋は冷たい口調でそう言ってのけた。

「人間は勝手に私たちに近付いてきて、私たちに触れた。私たちは彼らに彼女らに応えてあげただけ。彼らの望むモノ、彼らが求めるモノを与え、解放しただけ」
「解放ですって?」
「そうよ、解放よ。彼らがあるべき形になるように、ほんの少しだけお手伝いしただけ。そもそも悪辣なのは、私たち? それとも、漸科研のACIDの連中?」

 ほんの一呼吸の間に、還屋はそう問い詰めてきた。

「でも、還屋未来。ショーガツくんのクラスの子たちの全員が全員、そうであると望んでいたわけではないでしょう?」
「そうね。でも、そこには大義名分があったから」
「私を呼びつけるという?」
「そうよ」
「ふざけないで!」

 タケコさんは激昂する。その全身がぶるぶると震えているのが伝わってくる。

「あなたほどの力があるC的存在なら、そんな迂遠な事をしなくたって、私に接触することもできたでしょうに! なぜ、ショーガツくんを狙うようなことをしたの」
「別に誰でも良かった。けど、あなただってそれによって得たものはあるでしょう?」
「ふざけないで!」

 タケコさんは大きく頭を振った。

「得たものがないとは言わない。私は確かにショーガツくんのことが好き。すごく好きよ。でも、それはほんの一目惚れの世界。ただの一目惚れに過ぎない。私は彼のことをそんなに大して知りもしない。ショーガツくんだって私の事はほとんど知らない」
「運命の出会い、という奴ではないのかしら?」
「仕組まれた運命の出会いなんて、広告代理店の仕込んだ流行くらいに興ざめよ」
「あらそう。なら、あなたと彼との記憶にはもう用はないわね」
「……っ!?」

 タケコさんと僕は同時に身を乗り出した。

「それはだめだ」

 僕は還屋に言う。傷は気絶しそうになるほど熱くて痛かったが、ナースコールをする所の騒ぎではない。

「僕とタケコさんの記憶は消させない。僕にとって――」
「夏山ルリカはどうなの?」

 僕の言葉に割り込む還屋。僕はハッキリと言い返す。

「夏山ルリカも、タケコさんも、僕には大切な人なのは間違いない。その記憶を消そうだなんて、そんなこと、絶対に許さない」
「許そうが許すまいが、それは私たちの手の内にあること。でも安心してちょうだい。仮にそうしたとしても、あなたたちにとっては、何もなかったことになるだけだから」

 僕は唇を噛んだ。肩の痛みを忘れるくらいに強く、噛んだ。

「僕の記憶は僕のものだ。お前たちの好きにはさせない」
「お前たちというのは、私たちC的存在のこと? それとも、宝生やACIDを含む、記憶の盗人たちのこと?」
「全部だっ。僕たちの記憶を弄ぶ奴は全部敵だっ!」

 僕の訴えを訊いても、還屋は冷たい表情を変えない。

「たとえそうだとしても、朱野武、あなたは多くを守ることはできない」
「……そうね」

 タケコさんは唇を噛んでいた。僕も同じ表情をしていたと思う。

「夏山ルリカと、そこの彼。あなたはどちらを守るのかしら」
「そんなのっ……そんなの……」

 タケコさんは震える声で繰り返した。

「……邪魔が入りそうね」

 還屋は目を細めてドアの方を見た。複数名の足音が近づいてくる。タケコさんが険しい表情で呟いた。

「ACID……」
「そうね」
「あなたはどうするつもり。逃げられないわよ」
「あはははは」

 還屋はそれまでの雰囲気とは打って変わった声で笑った。

「私を誰だと思っているのかしら。人間如きで太刀打ちできるとでも?」
「ACIDは対C的存在に特化した集団よ。いくらあなたでも――」

 その時、ドアが乱暴に開けられた。たちまち入口から五人の男女がなだれ込んでくる。窓を破らない限り逃げられない。僕が窓を見た瞬間、僕はタケコさんにベッドに押し倒された。ガラスが派手に破られて、僕らの上にも雨となって降り注いだ。何枚かは表皮を突き破っていた。ただでさえ肩が痛むのに、この期に及んでさらなる流血を強いられた。

「タケコさん、大丈夫?」
「だいじょうぶ」

 タケコさんは言いながら、右肘近くに刺さっていた小さなガラス片を引き抜いた。出血こそ大したことはなかったが、痛みはかなりあったようだ。タケコさんは額に汗を浮かべながら唇を噛み締めた。

 室内には完全装備の男女が六人。窓からの侵入者が増えていた。彼らは驚くべきことに全員が銃を持っていて、その照準は一名を除いて、全員が還屋を狙っていた。その残り一名はタケコさんの背中に拳銃を突き付けている。僕は銃にはサッパリ詳しくないからよく分からないが、その一名以外は全員がサブマシンガンのような銃を構えていた。

「ショーを始めるつもり?」

 還屋は動揺の欠片すら見せずに尋ねた。

 僕は冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような――純然たる恐怖を覚えた。

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