何が起きたのかはわからない。
だが、何かは起きたはずだ。
僕は錯雑とした記憶の破片を拾い集めて、その夜に何が起きたのかを思い出そうとする。タケコさんとの面会の後から、突然記憶が途切れてしまっている。まるで眠りこけて夢でも見たのではないかというくらいに、不可解で不愉快な記憶が胸の奥に残っている。僕はそこでまぎれもない恐怖を覚えていた。
なのに、その恐怖の源泉が何であるのか、今の僕にはさっぱりわからないのだ。
その原因はわかっている。
記憶を喰われたのだ――還屋未来に。
そうだ、還屋だ。
僕は突然思い出す。還屋がタケコさんに連絡して、そのおかげで僕はチョッカに殺される寸前だったところを何とか助けられた。
還屋はC的存在で、ACIDとは対立していて、だけどなぜか還屋はACIDのメンバーの記憶を喰らわない。還屋は何でも知っていて、だからACIDを喰らわない理由が明確ではない。
……わかったようなわからないような。
僕は誰もいない病室で独り考え込む。
タケコさんと夏山ルリカ。二人のことはまだ覚えている。僕はその一点にのみ安堵した。他を考えると暗澹たる気持ちになるわけなんだけど。
「あ、起きてた」
夏山ルリカが病室にヒョコっと顔を覗かせた。僕は少し慌ててサイドテーブル上に鎮座していた眼鏡を取って、あるべき場所にセットする。
「痛む? あれから三日間も眠り続けたって聞いて」
「三日?」
僕は首を傾げた。いや、タケコさんが来たのは昨夜だったはずだ。
「病院に運ばれてから一度も目を覚ましてないって聞いて」
「えっと……」
さっそく僕は混乱する。どういうことなんだろう。昨夜の記憶は喰われたのではなくて、そもそも偽物なんだろうか。それともすり替えられたとでもいうのだろうか。いや、それ以前にただの夢だった?
夢――。
その説もあるか。
僕は漠然と遠くなっていく記憶にそういう定義を当て嵌める。
肩の傷がズキズキと痛む。そうだ、痛み。痛みはあった。あったはずだ。夢だから痛みがないというのは些かナンセンスな思い込みであるように思えなくもない。何故なら、痛みというのは脳神経を駆け巡る電流がもたらす幻想のようなものだからだ。
「僕は……何か」
「どうしたの?」
夏山ルリカはベッドサイドに丸椅子を持ってきて、そこに腰を下ろした。制服のスカートから覗く膝小僧が、何故かひどく眩しい。
「チョッカは? どうなったの?」
「チョッカ?」
はぁ? と言わんばかりの顔で、夏山ルリカが僕を見る。
「チョッカにやられたんだろ、僕」
「何言ってるの?」
夏山ルリカの眉がつり上がる。僕は背中に冷たい滴が加速しながら伝い落ちるのを、妙に生々しく感じていた。
「僕はいったい、どうしてこんなことに?」
「覚えてないの?」
いや、覚えてないのは夏山ルリカ、お前の方だろ。僕はゴクリと喉を鳴らす。
「学校帰りにいきなり知らない人に刺されたじゃない」
「はぁ?」
「通り魔って奴ね。犯人は逃走中。私も顔は見れなかった」
逃走中……それはそうだろう。だって、そんな犯人なんていなかったはずだからだ。チョッカの投げたナイフが僕に突き刺さった。これが事実なのだから。僕は震えそうになる下顎を叱咤しながら、尋ねた。
「チョッカのこと……忘れたの?」
「チョッカって誰?」
夏山ルリカの顔に不安の色が浮かんだ。やめてくれ、夏山ルリカ。そんな目で僕を見ないでくれ。僕は夏山ルリカが僕のことをからかっているのだと思いたがっていた。だから、今からでもいい。「なーんちゃって」とか言って欲しいのだ。
だが僕の願いも虚しく、夏山ルリカはまるで僕に同情でもしているかのように、目を細めて僕を見ていた。僕はたまらず目を逸らす。
「僕は……」
「混乱しているのよ。そうよ、私だって怖かったもの」
「混乱なんてしていない」
僕は首を振った。だが、僕の声は夏山ルリカにまで届くことができない程、かすれ果ててしまっていた。
「夏山ルリカはどうやってその場を?」
「タケコ先生が助けてくれたのよ。タケコ先生、すごく強くて、あっという間にその犯人をやっつけちゃって」
「でも、逃げられたんだ」
「そ、そうね……」
なぜかバツが悪そうに、夏山ルリカは頷いた。夏山ルリカの顔を上げさせるために、僕は「別に責めてるわけじゃないよ」とフォローしなければならなかった。
「夏山ルリカ、冷静に聞いてほしい」
「なに、突然改まって」
「うん、そう言う事情なんだ」
僕は我ながらわけのわからないことを言い、そして夏山ルリカの左手を握った。手を握るくらいはすっかり慣れっこの夏山ルリカは、それでも僕から手を握ってきたことに驚いて目を丸くした。
「ど、ど、どうしたの、ショーガツ」
「君は還屋未来のことを知ってる?」
「そりゃ知ってるわ。クラスメイトだもの」
「どのくらい?」
「あんまり学校に来ないから、そんなにわからないわ」
「なるほど」
となると、還屋がC的存在であるということも知らない――忘れたということだ。ということは、チョッカの事を覚えているのは、もはや世界で僕一人かもしれない。しかし、その僕の中からも、チョッカの姿が消えようとしている。思い出せないのだ、その顔も、声も。ただ、チョッカという名前の匣があるだけで、その中身が何であるのか、もはや観測すらできない。そもそもチョッカというのは名前だったのか。そもそもチョッカとは何の略称なのか。そもそもそれは人なのか。そもそもそれは名詞だったのか。チョッカとは。チョッカとは。チョッカとは?
僕は首を振る。
僕が呼吸をするたびに、僕の心臓が拍を打つたびに、チョッカという音がばらばらになっていく。ああ、これが記憶を喰われる感触か――僕は漠然とながらそう思う。和紙に水気の多い墨の雫が広がるように、ぼたりと黒い穴が開き、じわじわと広がっていく。その雫はひどく冷たく、容赦なく僕の胸の中に孔を穿つ。だが同時に確信もある。この孔はすぐに塞がるのだと。
僕は叫び出したい衝動に駆られる。夏山ルリカの手を、肩を、背中を抱き締めて泣き叫びたい衝動に駆られる。だが僕にはそんな意気地も甲斐性もなくて。自由になる右手で、夏山ルリカの手を強く握りしめることしかできなかった。
「タケコさんは……どうしてる?」
「知らない」
夏山ルリカは首を振った。
「あの後から姿を見てなくて。もしかしたらお見舞いに来てたかもしれないけど」
そう聞いて、僕はひどい胸騒ぎを覚えた。タケコさんはもしかすると僕らのこの記憶の混濁に気付いていて、それで、C的存在か、あるいは、ACIDにコンタクトに行ったのかもしれないと。
僕はここにきてようやく、自分のスマートフォンの存在に思い至る。
「僕のスマホ、どこだろ」
「荷物は全部一緒に運んできたんだけど」
夏山ルリカはベッドの下から僕のカバン一式を引っ張り出す。
「中、探してみてくれる?」
「いいの? 見ちゃっても」
「困るモノないしね」
僕はちょっとだけ笑い、そして左肩の激痛に悶絶する。
「じゃ、探すね。って、ほんと教科書とお弁当箱以外、なんにもないや。スマホスマホ……」
夏山ルリカは暫くごそごそ漁っていたが、やがて諦めたように僕を見た。
「ないよ」
「ない……。制服のポケットかな?」
「ちょっと待ってね」
夏山ルリカは自分のスマホを取り出して、何やら操作をした。そして難しい顔をして暫くスマホを眺めていたが、やがて首を振る。僕は溜息をついた。
「バイブの音も聞こえないね。電源落ちてるか、ここにないかだ」
「そうね」
夏山ルリカは唸る。
「救急車で運ばれるとき、わたし、周りをチェックしたんだけどなぁ……」
「まぁ、しょうがないよ。母さんには伝えておかないと」
「あ、わたし今伝えとく。LINE知ってるから」
「……頼むわ」
どこまで仲が良いんだ、うちの親と。僕は右手で頭を掻いた。
「ねぇ、ショーガツ」
「うん?」
「さっき言ってたチョッカって誰?」
「チョッカ?」
そんなの言ったっけ? ていうか、チョッカって人の名前か?
「僕、そんなこと言ってた?」
「何言ってるの。言ってたわよ。それとも刺した人、知り合いだったの?」
わからない。
そもそも僕を刺したのは誰だ?
どんな状況でやられたんだ?
「僕は、見知らぬ人に刺されたんだよね」
「そうよ。小太りの眼鏡の人に」
小太りの眼鏡……。
なぜかどんな人物なのか想像がついた。だけど、僕の記憶にはない。
記憶。また、記憶だ。
そのキーワードに辿り着いて、僕はようやく悟る。
C的存在――還屋未来。
彼女が――。
「ショーガツ、ちょっとショーガツ」
「え、うん、ん? どうしたの?」
「どーしたのじゃないわよ。いきなり黙り込んじゃって。聞いてた?」
「あ、ごめん。ちょっと記憶が混乱してて」
僕は素直にそう言った。
思えばこの時、僕らはもうすでに手遅れだったんだ。
コメント