僕は走った。涙が出るほど肩が痛んだが、それでも。
僕を追ってきたのは二人。どんな服装かまで見る余裕はなかったけど、とにかく黒い服を着ていた。その手には鉄パイプのような棒がある。銃でないのは幸いだったが、持っていないとも限らない。
タケコさんは心配だったが、彼女は剣豪だ。そんじょそこらの相手では負けない――僕は単にそう信じたかっただけかもしれないけれど。明らかに僕より強いとはいえ、女性を一人残してきてしまったうしろめたさと、何もできない自分の無力さと。ただ尻尾を巻いて逃げることしかできない情けなさと。スマホを持っていない僕は、通報すらできないのだ。助けの一人すら呼べないのだ。
僕はそれらネガティヴな感情の坩堝の中に完全に飲み込まれていた。
見知った通りがやけに長く感じられる。僕は走るのはそんなに早くない。追い付かれるのも時間の問題だ。一ヶ月近くも入院していたおかげで、身体が全く言う事を聞かず、足はもつれる以前の問題だ。自分のあまりの不甲斐なさに涙が出てきた。
「くそっ」
僕は走る。歩くよりほんの少しだけ速く。太腿が、膝が、脹脛が、こんなに重たいものだなんて初めて知った。
でも、次の角を曲がれば。あの消火栓の所まで辿り着けば。
大声を出せば母さんに聞こえるかもしれない。でも、その次の角がやたらと遠い。後ろからは二人分の足音が近づいてきていた。
次の角。あの立方体の家。そこを左に曲がれば僕の勝ちだ。
僕は喘ぎながら懸命に走る。空はうっすらと曇っていたが、明るい星は何とか見えた。その星が何て名前かなんて、まるで知らないけど。
あと五十メートル。すぐそばだ。
その時、僕は気が付いた。あの角の立方体の家の前に、白衣の男が立っていることに。背の高いその男は街灯の下で、白衣のポケットに手を入れて、顔だけをこちらに向けて立っていた。眼鏡のレンズに街灯の光が当たっていた。表情は全くわからない。
追跡者の足音が近づいてくる。追い付かれる。
僕は身体を捻って後ろを向いた。
案の定、十メートルと離れていないところに、黒い棒を持った男が二人。キャップを被っていて、顔がよく見えない。だが、日本人であるようだった。その耳には通信機のような物が着けられている。
「ど、どうして僕たちを」
無駄と思いながら、かすれた声で訊いてみた。
「穏便に片付けようと思ったら」
一人が言う。僕は緊張した。
「おとなしく俺たちについて来い。命は取らない」
「タケコさんは」
「タケコ?」
もう一人が棒を構えながら問い返す。
「ああ、あの女か。あの女も殺すわけじゃない。ここは法治国家であるし、俺たちは政府関係者だ。ただ、あの女には色々と事情を聞かなければならない」
僕は首を振る。
「だったらもっと穏便な方法があったはずだ。あれじゃただの襲撃だ。穏便に済ませられなかったということは、何か事情があるはずだ」
「そうだな」
僕の背後には、いつの間にかあの白衣で眼鏡の男が立っていた。
「何者だ」
一人が誰何する。白衣の男はまた一歩前に出て、僕の隣に並んだ。百八十センチはあるのではないかという長身で、百六十センチジャストな僕は相当無理して見上げなければならなかった。
白衣の男は「俺がわからんとは」と不満げに言った。
「下っ端はこれだから困る」
「なんだと」
男たちが気色ばむ。白衣の男は眼鏡の位置を直した。何故か僕もその動作につられる。
「帰って伝えるが良い。ミミトヤが干渉してきたと」
「み、みみとや……!?」
男たちは目に見えて狼狽した。僕もその「ミミトヤ」なる響きに覚えがあった。
――C的存在の総本山のことを示す名前らしいの。
タケコさんはそんなことを言っていた。はずだ。いつどこで言われたのかはまるきり思い出せなかったけれど、確かに僕はタケコさんから聞いた。
「どうした、帰らないのか。それとも」
眼鏡の男は淡々と言い、また一歩踏み出した。男二人はじりじりと後ろに下がりながら、耳に手を当てて何か呟いている。報告を上げようというのだろう。
「さて」
男たちを無視して、眼鏡の男は僕を見下ろした。僕はその冷たい無表情を見上げて、そして未だ行動を決められない男たちを見た。
「このまま帰ってもお前の安全は保障されない」
「で、でしょうね」
僕は緊張していた。この立方体の建物の主、会った記憶がない。建物はずっと以前からあったはずなのに、一度も見たことがないなんてあるのだろうか。僕は眼鏡の位置を直しながら、また眼鏡の男を見た。
「そうだ、タケコさんは」
「それよりお前だ」
白衣を風にはためかせながら、男は悠々と立方体の建物に向かっていく。僕には選択肢なんてない。男についていくしかなかったのだ。
――いい、ショーガツくん。もし万が一、立方体な建物が現れたとしても、絶対に入っちゃダメ。どんな理由があったとしても。
タケコさんの声が記憶のどこかで再生される。
だけど僕の背後には武器を持った男が二人。今はこの白衣の男に威圧されていて身動きが取れていないけど、すぐに仲間も来るだろう。そうしたら力づくで僕の家に押し入ったりすることなんて朝飯前だ。もし彼らがACID――政府機関に連なる者だとすれば、たぶん、警察ですらアテにはできないだろう。これから一生、怯えて暮らさなきゃならなくなるかもしれない。それだけはなんとしても御免だった。
だとしたら、やっぱりこの男についていくしかない。
僕は意を決して白衣の男を追いかけた。彼は玄関フードの扉を開けて僕を見ていた。僕と目が合うと、少しだけ口角を上げる。すごく荒んだ微笑だと、僕は思った。背筋が凍りそうな。
玄関フードに近付くと、そこには黒い板が置いてあって、赤色で文字が書いてあった。
「美味兎屋」――と。
「びみうさぎや?」
「ミミトヤだ。入れ」
僕は導かれるままに、その立方体の建物の中に入ってしまっていた。
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