美味兎屋ってどういう意味なんだろう。
男の後ろをついて玄関に入り、靴を脱がぬままに中に入っていく。そこは外観からは想像もつかない程に広く、長い廊下を歩く必要があった。内装はシンプルだったが、金色の間接照明が絶妙にアンニュイな影を構築していて、僕はまるでオルゴールのカラクリの中に入り込んでしまったのではないかとさえ錯覚した。
音が鳴っているのだ。
どんな音かを意識することはできないが、常に何かの音が鳴っている。オルゴールのようであり、木琴のような音であり、同時にパイプオルガンのようでもあった。僕の意識が混乱しているだけなのかもしれないが。何せ、整合性が取れないのだ。この尋常じゃない長さの廊下は、まるで峠を貫くトンネルのようだったし、何もない通路の先に小さく見える部屋の入口は、何とも言えない淡い金色の禍々しさに満ちていた。
怖気。
この感覚をこそ、怖気というのだろうと僕は思う。途轍もない圧力と、途轍もない冷たさと、途轍もない不愉快さが、綯い交ぜになって僕の口と鼻と目と耳から流れ込んでくる。
どんな理由があったとしても入ってはならない――タケコさんはそう言っていた。僕はもう手遅れなのか。もう逃げられないのか。いや、逃げてどうするというのだ。僕はそんな考えをぐるぐると循環させながらも、白衣の男の背を追っていく。
「入れ」
漸く部屋に辿り着いて、男は僕を振り返る。僕の足はその十メートルも手前でピタリと止まってしまっていたからだ。
「戻っても良いが、失うものの方が多いだろう」
「失うもの……」
「お前の記憶は継ぎ接ぎだらけ。その上、余計なものが多数貼り付けられている」
「僕の記憶……」
C的存在は記憶を喰らう。ACIDもまた、記憶を消す……。それはC的存在に餌を与えないためだ。
「僕の記憶は、あなたたちの攻防のためにおかしくなっていると?」
「そういうことだ」
男の言葉に、僕は観念した。自分の記憶の正当性を自分一人では証明できないことに気が付いたからだ。僕の記憶が正しいんだと僕一人が喚いたところで、それはただの妄言に過ぎない。僕が仮に正しくても狂人になってしまうし、僕がすでに狂人なのだとしたら第三者にその裏付けを与えることになってしまう。だから僕は、もう観念したのだ。
「僕の、夏山ルリカとタケコさんとの記憶は奪わないで欲しい」
「ふん」
僕の切実な訴えに、鼻笑いで応える白衣の男。男は部屋の奥の方にあるソファにどっかりと腰を下ろして、悠然と足を組んだ。その傲慢にも見える態度に、僕は学校の体育教師の姿を重ね見る。だが、彼はその体育教師よりもずっと厄介な手合いだと僕は思う。冷静すぎて掴み所がないからだ。
「そもそも――」
男は肘掛けを指先で叩きながら言った。僕はその目の前三メートルの所でぼんやり立っている。
僕らの周囲にはいろんなものが、それこそ無節操になんでもあった。水槽の中で跳ね回る赤い布や、古びたソファに横たわる頭の開いたマネキン、帽子をかぶった子どもの人形、電化製品の類やらタペストリーやらなにやらかにやら。とにかく世界のありとあらゆるカテゴリーのものを一通りそろえているのではないかというくらいに何でも揃っていた。探せば剣や鎧や宝箱にさえ遭遇できるだろう。無限の広さを持つ倉庫の真ん中に、白衣の男がふんぞり返っているというわけだ。
「記憶というのは何だと思う」
「記憶っていうのは、その人が見聞きしたり感じたりしたもの……」
「違うな」
男は足を組み替えた。
「記憶というのは自分を同定するための要素であって、それ以上でもそれ以下でもない」
「……どういうこと?」
「自分が見聞きしたものなんて、実際の所、記憶になんて入ってはいない。そもそも、記憶というのは他人を利用した外部メモリに他ならない」
「てことは、他人なしに記憶は保存できないってこと?」
「そういうことだ」
男は鷹揚に断定した。僕は些か納得しかねている。
「でもそんなことないでしょう? 他人の記憶で家に帰ったりしてるわけじゃないし、他人の記憶でテストの問題解いてるわけじゃない。僕の記憶は僕のものだ」
「そうだろうかね」
男は眼鏡のレンズを光らせながら言った。
「他人というのは少し俺も限定し過ぎた。自分以外、という表現をするべきだった」
「同じでしょう? 自分以外は他人だ」
「人とは限らぬではないか」
「はい?」
変な事を言う奴だな、僕は素直にそう思った。だが男は冷たい微笑を見せる。
「人だけが記憶を持つと思っている時点で、お前はその程度の人間だ」
「人以外が記憶なんて持つわけがないじゃないですか」
「人の作りしものは悉皆、記憶を継承する」
「……意味が分かんないです」
「人間が関与した段階で、つまり、人間と繋がりが出来た時点で、それはそれらの記憶を持つ」
「そんなこと証明できないじゃないですか」
「その証明が、お前が自分の記憶だと言っている記憶なのだよ」
男はつまらなさそうな口調で言い切った。それに僕は少しだけ苛ついた。
「でもそれだと、仮に僕が記憶と思っているものが他人の、自分以外のモノの記憶であるということが正しいとして、そしたらどうして他人は僕に対する記憶を持てているんですか。他人は、他物は、特別だとでも言うんですか?」
「その記憶は自己という意識からは観測できない。ただ、自分の記憶を他人に投影し、他人の持つその記憶による反射を受け取っているに過ぎないからだ」
「じゃぁ、自分の記憶があるわけじゃないですか」
「自分の記憶などない」
「矛盾してますよ」
僕は鼻白んでそう言い募る。だが、男は表情を変えない。
「自分で観測できる自分の記憶がない以上、それは存在していない。観測されなければ事物は存在し得ない――物理に於けるもっとも基本的なルールだ。もっとも、正確には、観測されぬうちはあらゆる可能性が重なりあっていて確定させることができないというべきだがね」
「シュレディンガーの猫とかいうやつ?」
「まぁ、そんなところだ」
男は適当な口調で肯定した。
「でも、他人によって観測されるわけじゃないですか、その自分の記憶も」
「他人による観測は所詮は他人のものだし、その他人を観測した結果得られるものは、やはり他人の記憶でしかない」
男の言い分を聞いていたら、なんだか目が回ってきた。僕の正気を保ってくれているのは、この忌々しい肩の痛みだけだ。多分一生疼き続けるんだろうな、この傷。僕は暗澹たる気持ちになる。
「たとえば」
男は言う。
「この建物はいつからここにあった?」
「いつからって……」
ずっとあったよな? 曲がり角の立方体の家。昔から変な建物だって思っていた。
「本当にそうか?」
男は目を細める。まるで僕の頭の中が覗かれているような、そんな不快感。
「この建物は、美味兎屋は、いつでもどこにでも存在する。だが、違和感に気付いたのはお前が最初だ」
「違和感?」
「朱野武と出会って間もない頃。俺が試しに置いたこの建物に気付いたのはお前だけだった。他にも多々あるが、夏山ルリカの家を差し替えた時にもお前は気付いた」
「やっぱり……! 夏山ルリカに何をしたんだ!」
「その言い方は心外だな。俺はあいつを守っている」
「守っている?」
「ACIDからな」
「夏山ルリカも僕と同じように狙われて?」
「正確には朱野武の一派とみなされたと言うべきだが」
男は淡々と言った。
「じゃぁ、タケコさんが僕らに近付いたのが悪いって言うの?」
「お前の論理は跳びすぎてて今一つよく分からないが、結果としてはそうだ」
「じゃぁ、タケコさんはどうして僕らに近付いてきたの」
「そうなるべく仕組んだからだ、俺たちが」
「俺たち?」
僕は思わず腕を組みかけて、左肩の激痛に止められた。
「朱野武とお前を巡り合わせる必要があった、というのは些か運命論に過ぎる気はするが」
「タケコさんが何か特殊な背景を持ってるのは何となくわかる。でも、僕はただの高校生だし、別に何かあったわけでもないじゃない」
「確かにお前の過去にも現在にも未来にも、何かあるわけではない」
何か酷い言われようをした気もするが、グッと堪えることにする。
「だが、お前は一つの鍵を持っている」
「鍵?」
「記憶だ」
「記憶?」
言葉を覚えたインコのように繰り返す僕。
「お前の記憶は特殊なのだ、構造からして」
「ええ? 記憶力とか普通だし、天才でもないですよ、僕は」
「誰が天才だと言った。特殊だと言ったんだ」
男は小馬鹿にしたように言った。僕はグッと息を飲み込む。
「もっともそれ自体珍しいことではない。だが、朱野武とシンクロし得るかという観点からでは、お前は多いに有望なケースだった。だから、お前たちが還屋未来と呼んでいる存在が、お前たちに干渉した」
「それ、僕はつまり、あなたたちC的存在とかいう奴に利用されたって?」
「とも言える」
男は罪の意識の片鱗も見せずに肯定した。半ば絶句した僕を冷笑しつつ、「だがな」と男は続ける。
「お前は既にACIDに目を付けられていた。クラスの同級生が二人、その実験に使われただろう?」
「同級生? 二人も?」
僕にはピンとこない。同級生に何かあればいくら何でも覚えているだろうと。
「川居合気と、直河卓琉――覚えはないか」
「かわいごうき……なおかわすぐる……?」
何だろう、この頭の中を這い回る不愉快な感触は。僕の記憶の中に二人の名前はない。だけど――。
「記憶とは自分以外に宿るもの。その保持者が消えれば記憶も消える。俺たちはACIDの不始末を処理している」
「よくわからない……」
僕は、額のあたりに痛みを感じている。思わず眉間に力が入る。
「ACIDは記憶を消す。俺たちに糧を与えないためにな。だが、俺たちはその整合を取るために、その何倍もの記憶を奪う。結果、ACIDの行為は、俺たち……お前たちの言うところのC的存在の存在強度を加速度的に増していくことになる」
「それじゃ……ACIDはC的存在とグルってこと?」
「さぁな」
男は首を振る。僕の傍らの水槽では、赤い布に包まれた何かがもぞもぞと蠢いている。時々妙な声を発しながら。
「奴らの思惑はともかく、俺たちはこの世界を構築する記憶のネットワークの整合性を取ることを優先事項としている。素人集団漸科研の実行部隊ACIDがめちゃくちゃにしてくれたこの結節のありさまをな」
「でも、それじゃ最初の説明と食い違う……」
「鶏と卵のようなものさ」
男はまた足を組み替えた。
「確かに俺たちは人間の記憶を喰って存在を維持している。だがそれは従来は、多くの人間から少しずつ分けてもらっていた。だが、人間は俺たちに漸近し始めた。自ら寄ってきたのだ。政府直轄の機関・漸科研まで作ってな」
「何のために?」
「俺たちの持つ論理ネットワークを調べるためだ」
「論理ネットワーク?」
訳の分からない単語がまた増えた。男は眼鏡の奥で目を細めつつ頷く。
「気付いているかもしれないが、俺たちは人間の手に負える存在ではない。奴らは、そこにも気付いた。つまり、俺たちの力に目を付けた。この専守防衛の国家は、なぜかその防衛力の維持すらままならない。数多くの妄想妄言妄執により、自国の防衛すら満足にできん。であるならば、より上位層の概念を導入しようと計画したわけだ。それが当時の官房長官、吹田信夫の目論見だ」
「それで人の記憶をどうにかしようって?」
「意外と聡いな、お前は」
男は頬杖をついて言う。僕は相変わらずの直立不動だ。
「となると、ACIDって、そもそもが――」
「あれは、俺たちに記憶を喰らう必然性を与えるための機関だという説明が最も正解に近い」
「話が全然違う……」
しかし僕は、この男こそが真実を話しているのではないかという気になっている。何故なら、僕一人にそんな妄想を語るなんて、馬鹿馬鹿しい手間にしか思えなかったからだ。
「タケコさんはそれに気付いて?」
「そうだ。ACIDの活動を妨害することが、ひいては国家国民を守ることになる。朱野武の父は殺される前日に娘にそれを伝えた。朱野武はその時から呪われたのだ」
「呪われた……?」
「ACIDと俺たちC的存在の狭間で戦い続ける呪いに」
「あっ」
そこで僕は不意に思い出す。
「潜伏期間って、どういうこと?」
僕は震える声で、そう尋ねた。
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