LC-05-004:開示

ロストサイクル・本文

 潜伏期間というのはな――男は律義に説明を始めた。

「C的存在のネットワークに組み込まれるための準備期間。つまり、記憶の主体をこの世界の物から俺たちの概念へと組み替えるための並行運用期間のようなものだ」
「やっぱり支配体制を変えるってことじゃないですか」
「そうとも言える。だが、それを提案してきたのは人間だ。具体的に言えば、CIRO内閣府情報調査室の連中だ。そいつらは後の漸科研だが。その代わりに国家の安寧を見返りとして求めてきた」
「国家の安寧……」
「そうだ。記憶は天壌無窮てんじょうむきゅういしずえだ。このネットワークさえ構築されれば、ありとあらゆる事象を操作することができる。強いてはこのちっぽけな惑星など、簡単に制圧することができる。話はこんな島国云々の問題ではなく、宇宙規模と言っても良い」

 男の妄言。僕はそうとは受け止められなかった。この不可解で不愉快な部屋は、恐らく僕の世界のどこにも存在していないのだ。物理法則すら無視されていて、そして今の僕は多分、僕の世界のどこにもいない。記憶からも消えているに違いない――なぜかそんな確信が生まれている。

「潜伏期間が終わったら……どうなるんですか?」
「世界が塗り替えられるだろう」
「そうなったら僕ら人間は……」
「C的存在に変わる。そうさな、インスマウスの民ように」
「インスマウス?」

 僕の頭の中にはその情報は存在していない。だが、なぜか無性に禍々しい――胸の内側、鳩尾のあたりにそんな感触を覚えた。

「それを止めることは?」
「できたとして、どうして俺が開示すると思う。これは俺たちの存在意義であり、目的だ。人間は最適化され、世界は完全なる調和を手に入れるだろう」
「そんなの」

 言いかけて僕は言葉を失う。反駁はんばくの手段が思いつかなかったのだ。

「タケコさんはそれを止めようとしている?」
「その事実に気付いたのはつい先日のようだがな」

 男は冷たい笑みを見せる。

「だが彼女は止まらないだろう。だから、ACIDが強硬手段に出た」
「そうだ! タケコさんはどうなったの。無事!?」
「還屋未来の気分次第だろう」
「それで、その、どうなったの」
「せっかちな奴だな。この空間には時間の概念すらない。慌てた所で意味はない」

 時間の概念がないという状況がいったいどういうものなのか、僕には想像がつかない。たとえ今まさに僕がそのような状態にあるのだとしても。

「僕はタケコさんを見捨てて逃げたんだ」
「足手まといだから逃がされたのだろう?」
「そ、そうだけど」

 でも、僕は、夏山ルリカが立方体の家に入る時にも止めることができなかった。結局のところ、僕がぼんくらで無能だから、誰も助けられていないんだ。

「そ、そうだ。夏山ルリカはどこにいるんですか。立方体の、ちょうどここと同じ建物に入っていったのを、僕は見送った」
「ここではない別の場所で、俺と会話している最中だ――お前たちに分かるように伝えるとなると、このあたりの表現が限界か」
「つまり、無事なんですか?」
「今のところはな」
「今の……ところ?」
「俺たち、つまり、お前たちの言うところのC的存在というのは、接触するだけで一種の汚染が起こる。間接的に接触してでさえ感染者キャリアになるわけだから、尚な」
「だとしたら、僕も……」
「そうなる」

 男は血も涙もない断定をした。僕は苦労して唾を飲み、息を吸い、二酸化炭素を吐き出した。

「お前はどうしたい?」
「僕が?」
「そうだ」

 男は冷酷な口調で言う。

「お前の希望を叶えてやる。ここに来た多くの人間にそうしたようにな」
「僕の希望?」
「そうだ。何をどうして欲しいのか、言ってみるが良い」
「夏山ルリカとタケコさんを助けて欲しい」

 僕は言った。その僕の答えに、男はなんだか微妙な表情を見せる。

「それでいいのか?」
「それ以上があるものか」

 僕は上の方を見た。今気が付いたが、この部屋には天井がなかった。つまり天井灯の一つもない。それにも関わらず、琥珀色に明るい。その作為的な陰影が、男の頬に陰を落としている。

「まずは自分の無事を願うものなのだがな」
「それはなくない」

 僕は素直に言った。

「だから、僕は無意識に、自分は大丈夫だと思っているのかもしれない。でも、僕の意識は、夏山ルリカとタケコさんの無事を祈ってる。それしかできないから。それは間違いないんです」
「なるほど」

 男は目を細める。揶揄するような、値踏みするような、そんないやらしい目つきだ。眼鏡のレンズがギラリと輝き、男は漸く立ち上がった。そして僕の目の前までやってきて、僕の肩に手を置いた。

「還屋未来が朱野武を呼び寄せるのにお前を使った理由が見えた」
「それは……?」
「お前がその選択をすることを知っていたからだ、あいつは」

 二人の無事を祈るっていう……?

「そうだ」

 男は頷いた。どうやら男との会話に、言葉はいらないようだった。でも僕は、自分の言葉を確信するために言葉を使うことを選ぶ。

「タケコさんも僕にとっては大事な人だ。夏山ルリカはもしかしたら一生の付き合いになるんじゃないかって思ってる。だから僕は、二人を何が何でも助けたい」
「どんな対価を払ったとしても?」
「僕に払える対価なら」

 僕は頷いた。僕にできることなんてたかが知れている。もしかして、この男は悪魔のような物で、僕の行為はつまり、悪魔に魂を売ることなのかもしれない。でも、それでも、僕は今、何としても二人を助けなくてはならなかった。

「なるほど」

 男は眼鏡の位置を直し、僕らが入ってきた扉を指差した。僕はその指示を理解し、恐る恐る扉を開く。

「ショーガツ!」

 夏山ルリカがそこにいた。鏡合わせのように、僕の背後の景色と同じものが、その扉の向こうにも広がっている。しかし、そこにはあの白衣で眼鏡の男はいない。後ろを振り返ってみても、そこには誰もいなかった。

「あの人は……」

 僕と夏山ルリカが同時に呟いた。

「でもよかった、またショーガツに会えて」

 夏山ルリカは僕に抱き着いてきた。ここで僕の方が十五センチばかり大きければ絵になる構図だったんだろうけど、残念ながら夏山ルリカの方が一センチ背が高い。結果、絵的にはなんだか微妙なバランスになってしまっただろう。だがそんなことよりも、とにかく今、夏山ルリカと空間を共有できている事実が嬉しかった。

「ひどい目に遭っていない?」
「遭わなかったけど、小難しい話を聞かされていたわ」

 夏山ルリカは部屋の境目から僕のいた方の部屋へと躊躇なく入ってきて、そして周りを見回した。その間も、夏山ルリカは左手で僕の右手を握っている。

「記憶がどうのって。正直関心なかったからふーんって聞き流してた」
「ひどいね」

 僕はあの白衣の男に同情した。水槽の中の赤い布が「わん」と鳴いた。僕はその布の正体を知りたいと思ったが、夏山ルリカは完全にそれをスルーした。僕も仕方なく夏山ルリカについて歩く。

 その部屋は本当に無限の広さを持っていて、どこまで歩いても延々とウィスキーの海を泳いでいるような、そんな感覚だった。だけど僕は孤独ではないし、夏山ルリカは頼れる人だ――僕はこの状況に感謝した。

 とはいえ、何一つ解決していない気はするのだけれど、時間の概念はないとあの人は言っていたから、今は慌てるタイミングじゃない。僕は夏山ルリカの隣に並びながら尋ねた。

感染者キャリアになるって言ってたけど、具体的にどうなるんだろう」
「潜伏期間が終わったら、きっと」

 夏山ルリカは足を止める。

「何かが変わる。でもそれは多分、わたしたちにはそんなに関係ないよ」
「そうかな」
「きっとね。どうせ分からない未来なんだから、憂いてもしょうがないよ」

 夏山ルリカのこういう所は本当に強いと思う。他方、僕は未来が分からないと不安になってしまう。でも今は。

「そうだね」

 僕はそう言える。夏山ルリカは僕を見てニコリと微笑んだ。その微笑は本当に何の不安も感じさせない程に軽くて、それを見ている僕も一種の踏ん切りをつけられた。

「さてと。こんな空間に閉じ込められちゃったみたいだけど、どうしたらいいのかな」
「ま、のんびりしましょう」

 夏山ルリカは白衣の男が座っていたソファを横目に、ずんずんと進み続ける。僕たちの進む方向にあるガラクタたちが畏まって道を開けていく。そんなふうに僕には見えた。僕たちの歩くところに道があるのか、僕らが道を選んでいるのか……それは判然わからない。でも、確かに僕らは歩いていた。手を繋ぎながら。

「夏山ルリカ」
「どうしていつもフルネームなのよ」
「いや、今更かなーって」
「何かを変えるのに遅すぎることはないのよ」

 夏山ルリカは肩を竦めつつ、また先を歩こうとする。僕は速足で追いついて、また隣り合わせになる。どん、と音が鳴った。それは威圧的な音とは違って、何か花火の音のような、大きな広がりを持つ音だった。それは二度三度と繋がり、そして夏山ルリカが上を指差した。

「花火?」
「かなぁ?」

 パッと光る花。それは大きく広がって消えていく。ウィスキーの空間はやがて深海色の帳に支配されて、そこには星空が広がっていた。いつの間にか僕らはあの空間から出てしまっていたのか。あるいは、まだそこに囚われているのか。それはわからない。ただ、空には花火が幾重にも上がり、その度に僕らの影を濃くしていく。

 誰もいない。夏山ルリカの他には。何もない。空以外には。そこにはアトランダムに花火が上がり、無節操とも言える輝きを映しては消えていく。僕は足を止めた夏山ルリカにほんの少しだけ近付いて、その端正な横顔に尋ねた。

「なんなんだろうね?」
「さぁ」

 なんとも言えないいらえ。それは決して僕を拒絶するようなものではなくて、ただ現実をそのまま吸収しようとしているかのような、そんな響きだった。

「ねぇ、ショーガツ」
「うん?」
「あんたさ、わたしとタケコ先生と、どっちを選ぶ?」
「え?」

 夏山ルリカの声は少し震えていた。

「わたしね、あんたとずっと一緒にいられると思ってた。誰にも邪魔されずに、この先もずっと一緒だって思ってたんだ」

 思わぬ言葉に、僕は硬直した。夏山ルリカの左手を握る右手が、まるで凍り付いてしまったかのように、僕の言う事を聞かない。

「わたし、あんたがわたしのことを好きなんだって、高を括ってた。でも」
「僕は――」
「わたしをそういう目で見られない」

 でしょ? と、夏山ルリカは僕を見た。花火が夏山ルリカの目の表面で輝いた。

「わたしたち、もう一緒にいちゃいけないかな」
「そんなことは」
「タケコ先生が心からあんたのことを好きなのかどうかはわからない。でもそんなことどうでも良くって。あんたがどう思ってるかだけが、今のわたしには大切なことで。だから、教えて。あんたはどっちを選ぶ?」

 僕は――。

 頭の中が混乱している。意識がぐるぐると回っている。言葉が口の中に湧いてこない。

「僕は……」
「わかってる」

 夏山ルリカが僕の言葉を遮った。いや、遮られる以前に、僕はそれ以降の言葉が浮かんでいなかったのだけれど。

「でもね、覚えていて欲しい。わたし、あんたに告白コクられたかったんだよ」
「えっ……」
「えっ、じゃないでしょ。まったく、私の五年以上に渡るモーションは何だったのってハナシ。この鈍感男子」
「ご、ごめん」

 僕は思わず謝った。謝ったけど、僕は――。

「ねぇ、せっかくだから訊いちゃうけどさ、ショーガツ。あんたはわたしといて楽しかった?」
「え、そりゃ、そうだよ。じゃなかったら一緒にいないし……」

 ベッドだって貸さなかったし、そもそも一緒に帰ろうとなんてしないし。

「ならよかった」

 夏山ルリカは僕を見てニッと笑った。だけど、その目は少し潤んでいた。花火の照り返しがそれを鮮明に僕に見せつけてきた。

「わたしもね、タケコ先生といっしょ。あんたに一目惚れしたんだ。同じクラスで、隣の席になったその瞬間にね」
「なんで? 僕なんかに?」
「わかんない」

 夏山ルリカは首を振る。

「わかんないけど、きっとあんたがわたしの物語の主人公だったんだよ」
「しゅ、主人公?」
「そ。わたしより小さくて、運動も大してできなくて、成績もわたしより下。どっこにも長所なんて見当たらないけど、なんでだろうなぁ。とにかくわたし、あんたが気になって仕方なくなったんだ。それがもしかしたらC的存在とかのせいかもしれないけど、もしそうだとしたら、わたしはあの人たちに感謝しなきゃならないかもしれない。わたしはそういうのが作為的なものだったとしても、こういう作為ならと呼ぶわ」
「なんかひどい言われようだった気がするけど……」

 僕はぶつぶつと言いながらはたと思い至った。

 気が付いたのだ。

「……僕は負けたくなかったんだ」
「え?」
「夏山ルリカ、君にね、負けたくなかったんだと思う。だから、君を好きになるとかならない以前に、僕は君を友人だと思い込もうとしたんだと思う」

 ――ショーガツくんが二十歳になるまでにルリカちゃんと付き合えていなかったら、私と付き合ってくれる?
 
 タケコさんの声が記憶の中に蘇る。

 僕は――。

「タケコ先生は素敵な人だと思う。わたしじゃ勝てない。あんな強敵が出てくるなんて、正直わたしはを恨んだわ。このままずるずるいけばあんたとずっと一緒だと心のどこかで思っていたから。レベルも上げずに気付いたら魔王の前にいたみたいなね。そんなくらいどうしようもない気持ちに、胸の内側から掻き毟りたい気分になっていた。自分の迂闊さを本気で悔やんだ」

 夏山ルリカの目尻から涙がこぼれた。花火の音がその雫を揺らす。伝い落ちた水滴が僕らの暗い足元に波紋を拡げていく。

「今のあんたの回答は聞きたくない。本当は今すぐにも本心を聞き出したいけど、今のあんたなら、わたしを選ぶって言う。でもそれはあんたの本心なんかじゃない」
「それは――」
「だからいい。わたしの想いは伝えたよ、ショーガツ。次はあんたの番。無限の時間のあるこの空間で、あんたはいっぱい考える時間がある。わたしはあんたに無限に考えて欲しい。無限に悩んでほしい。そして」
「そんなに時間は要らないよ。でもね、今僕たちは、タケコさんを助け出さなくちゃ。そうしなくちゃ」
「……そうね」

 たとえ時間の概念がないとしても、僕たちの心臓は動いているし、僕たちの気持ちはいていく。焦りが加速を始めている。

 花火が照らす空間を僕らはあてもなく歩いて行く。

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