僕らの行く先に一つの影があった。
「還屋……」
僕はそのツインテールの姿をすぐにそうだと同定する。この場に現れ得る人物といえば、さっきの白衣の男と、この還屋未来以外にはないと思っていた。
「ようこそ、宇宙の狭間へ」
「宇宙の狭間?」
「そう。宇宙と宇宙の狭間、何もない空間。私たちの棲家」
「そ、そうなの」
宇宙が複数あるなんて僕には初耳だった。もっとも、どのみち僕らに観測できるものではないのだろうけど。感心だか呆然だか分からないけど、そんなふうにぼんやりしている僕に変わって、夏山ルリカが声を上げた。
「ここがどこなのかは、今のわたしたちにはどうでもいいの。ただ、タケコ先生を助けなくちゃならない。わたしたちはそのために彷徨っているの」
「あいつは何て言ったのかしら?」
「対価……」
僕は呟いた。還屋は端正な顔を少し歪めた。嗤ったように見えた。
気付けば花火は終わっていた。視覚と聴覚を静寂が塗り潰す。
「そうね。あなたがたからはどんな対価を貰おうかしら」
還屋が僕らをじっと――獲物を狙うイグアナのような目で――見ていた。僕らは自然と手を握りなおす。じりりとした空気が僕らと還屋の間に流れ、一種殺気だった視線がぶつかり合う。
「どのみちね、あなたたちは感染者となってしまっている。私たちの力を受け過ぎてしまっているから」
「そんなの、君たちの勝手じゃないか。僕は望んでそうしたから仕方ないけど、彼女は……ルリカは、そうじゃなかったじゃないか」
「いいえ」
宣告するかのように還屋は首を振った。
「あの立方体は、その当人が望まない限り目の前には現れない。端的に言えば、何かから逃げたい時にね、導かれる。人が、人自身が引き寄せるのよ、美味兎屋を」
「ルリカが自分でこの世界に入り込みたいと思ったって?」
「それはあなたの責任でもあるのよ、春賀正月」
「ぼ、僕の……!?」
「ええ、そうよ」
還屋は「なんだ気付いてなかったの」と僕を心底馬鹿にしたように付け加えた。
「あんたと朱野武の関係。ヒントはここまで」
「ああ!」
僕はそれですぐに理解できた。夏山ルリカは、ルリカは苦しみ、悩んでいたのだから。だからそこから逃避しようとして――。
「それもあるけどさ、ショーガツ。それだけじゃないんだよ。わたし、いろいろ疲れてて、だから……なんだと思う」
「僕のせいだ」
僕は首を振る。ルリカは目を見開いて僕を見ていた。
「僕がルリカの事をちゃんと見ていれば、こうはならなかった」
「まーね」
ルリカは笑う。それは本当に歪みの一つもない、冴え渡るような笑顔だった。
「でもそれだけじゃないよ。家からも逃げたかったし、受験勉強も正直めんどくさかったし、もちろんあんたとタケコ先生のことからも耳を塞ぎたかった。ま、いろいろあったんだけど、あんた反省してるし、別にいいよ」
ルリカは僕の右腕に自分の左腕を絡めてくる。
「同じくらいの背丈だと腕が組み易くていいよね」
「う、うん」
そうかもしれない。
「でも、なつ……ルリカ。僕ら、今すごく困った状態にある気がするんだけど」
「そうねぇ」
ルリカは空いてる手の人差し指を唇に当てた。
「還屋さん。訊きたいんだけど」
「なにかしら」
「わたしたち、このままいくとどうなるの?」
「正確にはあなたたち人類は終わるわ」
「終わるって、どういうふうに?」
「インスマウスの民のようによ」
「ごめん、全然わかんない」
「無知こそ至福の歓び。よかったわね」
還屋はそう言い、ルリカと睨み合った。ルリカのあからさまな敵意の視線を受けても、還屋は怯まない。
「人類はそれ自体、私たちに漸近してきていた。それが接触に転じるのが、恐らく来年よ、あなたたちの時間でいうところのね」
「何が起きるんだ……?」
「人間はその記憶の全てを私たちに捧げることになる。人間の意識は、認識は、その全てが時間を喪うことになるわ」
「時間を喪う?」
僕とルリカが顔を見合わせる。お互いの息を感じられそうなほど、顔は近い。
「無限の可能性を手に入れるということ。観測者が生まれることによってね」
「さ、さっぱり、意味が分かんない」
ルリカがあんぐりとした表情を見せている。頬のあたりが引きつっている。当然ながら、僕にもさっぱり理解できない。
「これまで人間の世界は、個々の意識が観測者になることによって、相互観測によって記憶という名の情報ネットワークが構成されていた。正確には、普遍的無意識と呼ばれる領域を観測することによって、あなたたちは自と他を分かっていた」
「それが、他の持つ記憶……?」
「そう。……なぁんだ、もうあいつから聞いているみたいね」
「ざっくりしか理解できなかったけど」
「理解できるように話さないもの、あいつは」
還屋が微笑を見せる。まるでピザカッターのように湾曲した鋭利な唇だった。
「その普遍的無意識――唯一人間の持つ記憶の集合体へのDDoS攻撃を試行するための踏み台として、あなたたちを使おうっていうわけよ」
「そ、その結果どうなるっていうの?」
僕とルリカの声が奇跡的に重なった。還屋はまた刃のような微笑みを見せる。
「あなたたちはあなたたちでは……いられなくなる」
「わたしたちが孤立するっていうこと?」
「限りなく正解ね、あなたたちの視野で言うのなら」
「ルリカ、どういうこと?」
小声で訊く僕。ルリカは僕の右手を握り直して応えてくれる。
「わたしたちが見て、わたしたち自身を観測するのに使っていた普遍的無意識って奴が壊れると、わたしたちはわたしたち自身を観測できなくなる。それはつまり、他人を通しても見ることが出来なくなるってことで、だから、ええと」
「……自分も他人もなくなるってことか」
僕は首を振った。還屋はその黒い瞳をますます墨のように黒くして、僕たちを見ている。
「その代わり、人間の意識は全て一つの結節に接続されるのよ」
そのゾッとする物言いに、僕はルリカの左手をぎゅっと握りしめた。柔らかな白い手が、薄く汗ばんでいるのが分かる。
「よくわかんない」
ルリカはいっそあっけらかんとした口調で言った。
「その結果、わたしとショーガツとタケコ先生はどうなる?」
「何もかも忘れて融合することになるでしょうね、記憶の上では」
「どういうこと?」
また僕とルリカの声がハモった。ルリカの険悪な低い声と、僕の素っ頓狂な高い声が重なり合って最高に不機嫌な不協和音を作っていた。還屋はやや顔を顰めて肩を竦めた。
「つまり、人間の人間による記憶は全て私たちに接収されるということ。ああもう、面倒臭いわね。つまりあなたたち人間はすべて私たちの支配下に入るということよ。でも、その犠牲の代わりに、世界は平和になるわ。あなたたちの政府の望んだとおりにね」
――国家の安寧を見返りとして求めてきた。
あの白衣の男に言われた言葉が蘇る。
「でもそれ、僕らの政府の望みとは違うと思うけど」
「そうね。違うでしょうね」
「だったら、わざと……」
「人聞きの悪い」
還屋は少し不愉快な顔をした。
「彼らより私たちの方が賢かった。そういうわけよ」
「でも、うちの政府が求めたのは、日本国の安寧でしょう?」
「日本なんて小さな国家はどうでもいいのよ。現にもうすでに世界中に感染者が散らばっていて、もう止められないところまで来ている。そうね、X-day。その日、普遍的無意識は散逸し、全ての意識は参照元を私たちの主へと変える。そしてね、それは、人間の原点回帰でもあるのよ」
人間の原点回帰? てことは、もともとは普遍的無意識なんてなかったって?
「そういうこと。人間はいつしかその肥大した脳の可処分領域を使い、普遍的無意識を観測した。簡単に言えば、人間は叛乱したのよ、私たちに」
「だからってその支配権を取り戻そうって?」
「そういうこと。せっかく彼らが漸近してきたんだもの、それに応えてあげようという気になったっていうわけよ」
寝た子を起こしたというわけか。僕は当時の政府の迂闊さを呪う。
「あのさ」
ルリカがずいと前に出た。僕も慌てて隣に並ぶ。
「別に何だって良いんだけど、わたしはショーガツと今のまんまでいたい。こうやって手を繋いだり、ベッドでごろごろしたり、時々美人を目で追うショーガツに肘打ち叩き込んだりしていきたい」
「そんなこと。もっと本質的に一つになれる機会なのよ」
「そんなの他人に与えられるものじゃないわ」
「そんなの、僕も嫌だな」
僕はルリカよりも一歩前に出た。ルリカはすぐに僕の隣に並ぶ。僕らは一歩ずつ、還屋に近付いた。還屋は首を振り、「所詮、人には理解できる世界の話ではなかったわね」などと嘯いた。このやろう、と僕は頭に血が上ったが、ルリカは僕よりは幾分冷静だった。
「一年後の話なんてどうだっていいけど、とにかく今は、タケコ先生を何とかして。わたしたちを元の所へ返して」
「やれやれ――こんな時にはそう言った方が良いかしら」
還屋は大袈裟に肩を竦める。その黒い眼は一つも笑っていないのだが。
「いいでしょう。一年も時間はないけれど、漸近から接触に変わるその時まで、あなたたちは足掻くと良いわ」
「その時になったらまた話を聞くわ」
「私たちがその気になればだけど」
還屋はもううんざりだと言わんばかりに首を振り、右手の指をパチンと鳴らした。
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