タケコさんの強さは鬼神のようだった。十名を超える敵を前に、一歩も退かないどころか、圧倒していた。剣道四段とかそういうのでは到底計り知れない、圧倒的な実戦経験……だろうか。ともかくその動きはあまりにも洗練されていてハリウッドのアクション映画の女性主人公のようにスタイリッシュだった。
長さ一メートルの黒い棒のようなもので、タケコさんは襲ってくる連中を一撃二撃で仕留めていく。少し視界を巡らせると、一目散に逃げていく僕と、その僕を追いかける二名の刺客がいた。なんて情けないんだ、僕の後ろ姿は。そんな僕を見ながら、ルリカは同情するかのように僕の肩をポンと叩いた。その無言の気遣いは、かえって僕を傷付けたりもする。
僕らがどこにいるかというと……どこだろう? どこにもいないのに、だけど僕は自分とルリカを認識できる。当然タケコさんや刺客連中からは見えていない。僕が僕の身体を見下ろしても、何も見えないのだから。そのくせ、ルリカの存在も、その身体の位置も、どんなポーズをしているのかも、手に取るようにわかった。すごく不思議な感覚である。
タケコさんはついに最後の一人を打ち倒し、96式装輪装甲車のそばまで辿り着いた。するとその装甲車は、あろうことか急に発進した。つまり、タケコさんを轢殺しようとした。
「タケコさん!」
僕は思わず前に出ようとする。でも僕らの座標は変わらない。ルリカの手が僕の右手をぎゅぅと握る。
タケコさんはその死の一撃を辛くも躱す。だが、そこまでだった。バランスを失って転倒したタケコさんの額に、装甲車から飛び降りてきた迷彩服を着た男の拳銃が押し当てられる。タケコさんに殴り倒されていた刺客たちも次々と息を吹き返して、その周りに揺らめいた。
「ぶっ殺しておけば良かったわ」
タケコさんが物騒なことを、精いっぱいの感情を込めて口にした。
「朱野武。朱野直史の娘。一緒に来てもらうぞ」
「父と同じように、私も消すつもりね」
「恨んでくれるな。恨むならお前の母を恨め」
その言葉にタケコさんはキッと顔を上げて、その迷彩服の男……の、後ろに立っていた白髪の男を見ていた。
「母さんに取り入ったわね、宝生!」
「国家安寧のため。そのためには何人かの人間の人生など取るに足らない。国家は遥か古来よりそうして回ってきた」
「冗談」
タケコさんは額に銃口を押し付けられながらも嗤っていた。
「少数の犠牲を取って多数の安寧を得る。結構な美談に聞こえるけれど、それは結局漸減作戦みたいなものよ、自分たちに向けたね。少数を切り捨てていくうちに、いつの間にかあなたたち自身が少数派に入ることになるわ、絶対に」
「それは見解によっては正しい。しかしな、それを踏まえても、今この国は安寧を手に入れる必要がある」
「そのために世界を差し出すっていうの」
「必要ならばな」
宝生の言葉にタケコさんは薄く嗤う。
「それはあいつらの傘下に入るってことなのよ、宝生」
「だから?」
「人としての記憶を全て失うっていうことなのよ」
「俺は例外になるだろう」
「何を……」
宝生は冷たい瞳でタケコさんを見下ろしていた。それを傍から見ている形の僕らにでさえも、思わず怖気が奔った。
「俺は最初から奴らの力を受け継いでいる。いわば、奴らと人間のハーフのようなもの。だから、俺は奴らと人間の間を取り持つ役割を選んだ」
「それを外患誘致罪っていうのよ……!」
「はは、面白いジョークだ」
宝生はそう言ってから、ふと振り返った。僕らもつられてそっちを見る。
「たいへんだ!」
息を切らして戻ってきた二人――つまり僕を追いかけた二人だ――が、そう言った。
「ミミトヤが、ミミトヤが、干渉してきた」
「美味兎屋が……?」
宝生は初めて意外そうな表情を見せた。
「それはあり得ない。奴らは俺たちとは共存の関係にある。だから――」
「だから何だと言うのだ?」
宝生とタケコさんの間に、白衣の男が立っていた。タケコさんに銃を向けている迷彩服の男は、呆けたように空を見ていた。僕らの頭上に広がるのは、燦然とした陰気な空だった。
「お前は……」
「それで、俺とお前が共存だと?」
白衣の男は眼鏡のブリッジに手を当てて、その位置を直す。鋭すぎる眼光が宝生を射抜く。宝生はグッと息を飲む。喉仏が大きく動いたのを僕は見た。
「永遠の、宇宙の弥先から弥終までを見通す我々が、お前のような有限生命体と共存だと?」
白衣の男は僕の方を見た。見えているのだ、彼には。僕らの姿が。
「傲慢にも程がある。我々はお前にほんとうに末節の力を貸したに過ぎない。我々が大手を振って歩くための大義名分を得るためにな。そのために当時の権力者たちに囁いたに過ぎない」
「C的存在をこれ以上増長させないために、俺たちACIDは――」
「そんなことができるものか」
白衣の男は冷笑する。身体の芯から震えが来るほどの凍れる微笑だった。
「ACIDに記憶操作の技術をもたらしたのはこの俺だ。もっとも、それに気が付いたのは、朱野直史ただ一人だったがね」
「父さんは、やっぱり……」
タケコさんは呆けている迷彩服の男を突き飛ばして立ち上がる。その時に男の手から拳銃を奪い取っていた。
「そう、彼を始末するために、そこの宝生という男に力を貸してやった」
「……二人して、父さんの仇というわけね」
「そこの宝生は、指導教官でもあったお前の母と関係を持っていた。そしていずれ、直史を殺そうと計画していたのさ。俺はそこに囁いたに過ぎない」
しれっとえげつないことを言ったぞと、僕はルリカと顔を見合わせる。ルリカは険しい表情で腕を組んだ。僕は空になった右手をふわふわと彷徨わせ、そして結果として、ルリカの左の肘を少し摘まんだ。
「何やってんの、ショーガツ」
「いや、なんか」
「落ち着かないのは分かるけど」
僕らは見てるだけで何ができるわけでもない。強いて言えば立ったまま映画を見せられている気分だった。
「でもわかったわ。つまり、あんたがやはり父さんの仇」
タケコさんは左手に拳銃、右手に黒い棒を持って、宝生と正対した。宝生はいつの間にか、両手に巨大なバタフライナイフを持っていた。ルリカが息を飲んだのが分かる。僕も同じだったからだ。
「何もかも忘れてしまえば良い、朱野武」
「ショーガツくんさえ覚えていられればそれでいいッ」
銃撃から始まる剣撃。それは宝生のナイフで綺麗に弾かれた。タケコさんの左肘あたりから鮮血が散った。しかしタケコさんはなおも銃を撃ち、その間に間合いを取り直す。お互いが静止し、睨み合う。その二人を白衣の男は装甲車に背中を預けつつ、興味深げに見つめている。
次に打ち込んだのもタケコさんだった。銃撃からの踏み込み。電光石火の一撃。棒の素材が何であるかは不明だが、鈍器の類に属するものであることは間違いない。当たれば一撃で昏倒するだろうということくらいは、僕にだって判断がついた。
だが宝生は相当なナイフの使い手だった。掴み所のない構えからの防御、そしてカウンター。タケコさんもまるでアクションスターのような動きでそれらを往なしていく。二人の実力は伯仲していた。
がんばれ……!
僕は心の中で応援する。その僕に気付いた白衣の男が目を細める。
その時だ。突然空気を引き裂く音と共に、タケコさんたちが丸い光で照らされた。
「ヘリだっ!」
僕とルリカが同時に叫ぶ。
それはAH-64D。自衛隊の誇る戦闘ヘリ、アパッチ・ロングボウ。その機体下部で駆動し始めているのは、30ミリ機関砲――。
「タケコさん! 逃げて!」
僕は叫んだ。届かないと分かっていても。
白衣の男は、目を細めて口角を上げた。
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