二〇一九年四月。
僕らは晴れてH大学の大学生となった。
何事もなかったかのように。
だけど、そう――僕らの記憶は完全には消えなかった。
あの夜の記憶は、写真のように僕らの頭に焼き付いている。僕とルリカは互いのその脳内写真が、僕らそれぞれの妄想ではないことを確かめるために、あれから何日も何日も言葉を交わし合った。C的存在がどうであれ、ACIDがどうであれ、記憶は薄れるものだ。僕らはそれを阻止すべく、お互いの情報を出し合い、確認しあったんだ。
僕らは優しくて美人な家庭教師を知っている。たったの二ヶ月しか一緒にはいられなかったけれど。僕の母さんなんか、その存在さえすっかり忘れてしまっていたけれど。でも、僕とルリカだけは覚えている。朱野武、通称、タケコさん。タケコさんは今やもう、僕らの中にしかいないけれど、それでもそれで十分だと思った。どうせ誰も信じないし、信じてもらったところで意味はないし、嬉しくもなかったからだ。
それよりも何よりも、僕とルリカの中にだけいるその美しい人は、僕らだけの秘密となって僕らを繋ぎ止めていた。どんなに喧嘩をしようと忙しかろうと、僕らはタケコさんの事を少しでも多く思い出そうと、少しでも確実なものにしようと、言葉に言葉を重ね合った。
赤い車を見ると、タケコさんを思い出して、そして、少し悲しくなる。ましてWRXなんて見た日には、僕とルリカは手を繋いだまま、道の真ん中であろうと硬直してしまうわけで。
僕らは待っている。タケコさんと再会する日を。そしてその日はきっと、あまり良くない日になるであろうことも、僕らは予感している。それでも。会いたい。
タケコさんは戦っているのだ。絶対的で、絶望的な敵と。
僕らの記憶は茫洋として曖昧で、それでも僕らはそれに縋って生きている。
「ねぇ、ショーガツ」
ルリカは僕を見上げていた。その華奢な身体は、ほとんど僕に密着している。僕らの前には車が一台もいない大きな道路があった。そこにぽつんと建物があった。街灯のLEDに切り抜かれるようにして輝いているその建物は、その全容は見えないけれど、明らかに立方体だった。異常なほどに几帳面な、立方体。
「あれって、あれだよね」
「うん」
僕は頷いた。赤信号。歩行者用も、車両用も、視界内の全ての信号が赤色だった。空に浮かぶ月すら赤い。
「美味兎屋」――僕はその名を呼ぶ。
白衣の男がその前に立っていた。眼鏡のレンズがギラっと赤く輝いた。
「入れ」
「嫌だね」
僕は首を振って即答した。ルリカが少し笑う。白衣の男は右の口角を吊り上げる。
「なるほど」
男は腕を組んで頷いた。
「確かにお前たちはまだここに来るべきではない。だが、なぜだ。なぜここにいる」
「タケコさんの事を考えてたら、ここにいた」
「朱野武か」
「そうだ」
あの夜。タケコさんの望みは叶わなかった。僕らの記憶は虫食いで、だからタケコさんの戦いは覚えていて。だから、僕らの中のタケコさんは、ただの家庭教師なんかじゃなくて、とても強くて、とても美しい人だった。
「そうか」
男はふと僕らから目を逸らした。一直線に伸びる道路の遥か遠くから、二つの明かりが近付いてくる。
「あっ!?」
ルリカが僕の腕を引っ張った。
それは、WRXだった。信号の赤を禍々しく反射するその美しいボディは、確かにタケコさんの愛車だった。それは僕たちの前を行きすぎていく。そして、視界から消えていった。
「いたね」
「うん」
ルリカの問いかけに、僕は頷いた。
WRXの窓は開いていて、その運転席には、まぎれもないタケコさんがいた。
タケコさんは僕らに向かって、軽く敬礼の真似事をして見せたのだ。
「よかった。無事だったんだ」
僕が言ったのか、ルリカが言ったのか。でも、そんなことはもうどうでも良かった。タケコさんがまだ生きている。相変わらずWRXを乗り回している。それがわかっただけで十分だった。
「ねぇ、おじさん!」
ルリカが道路越しに声を張った。
「潜伏期間って、どうなったの?」
単刀直入なその問い。男は何も答えずに眼鏡のブリッジに手を掛けた。
「状況は無事に進行中だ」
そう言うその声には、一切の感情がない。僕はルリカと見つめ合い、小さく笑い合った。
「この状況で、よくも笑えるものだ」
白衣の男が言う。僕はルリカの右手を握り、そして言った。
「僕らは未だ、負けてないんだろう?」
――今の僕らには、それで十分だった。
-ロストサイクル・完-
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