啾啾ト哭ク赤イ布 第弐話

美味兎屋・本文

承前

 その声に、思わず足が止まった。と。私の足が。

 背中の毛穴全てが、ワイシャツ内の湿度を何倍にも増加させる。硬直する身体を強引にひねる。結論から言えば、そこにいたのはではなかった。通り過ぎたばかりの一戸建ての玄関先に座り込んでいる、奇怪な風体の男に声をかけられたのだ。奇怪な、というのは、夜中のこの時間に白衣を着て、玄関前に「ただ座りこんでいる」ためだ。タバコを吸いに外に出てきたという様子でもない。ただ、居たのだ。

 男は細いフレームの眼鏡の奥から、私と私の手の中にあるものを交互に見った。そして生気も感情も見えない視線を私の眉間に止め、立ち上がりながら低い声で言った。

「そのまま帰ったら食われるぞ」
「え……」

 私はぽかんと口を開いた……と、思う。

「それにお前、をどうするつもりだ」
「どうって……」

 確かに、家に持ち帰ったところでどうにもできるわけではない。緩慢な時の中、無意識に眠気を駆逐しながら苦しむだけだ。明日、研究所に行けるかもわからない。

「これだからは困る。意気地もない、後先もない。

 男は近付いてくる声の方向を鋭く睨みつけ、玄関のドアを開けた。

「時間を潰すがいい」

 選択肢は無かった。

 私は男の家の中に駆け足で上がりこんだ。玄関フードの中、ドアの脇には、真っ赤な看板が乱暴に置いてあった。

 そこにはささくれた墨の色で、『美味兎屋』と書いてあった。

 びみうさぎや……?

 おかしな名前だった。私の手の中に居るものを考えると、その名前は奇妙に歪んでいる。

「ビミウサギヤ、ではない、ミミトヤ、だ」

 上下も強弱も無い口調で言いながら、男は奥まった一室へと私を通した。その動作は乱雑で、粗暴でもあった。その大きな部屋に入って、私は初めて疑問に思った。

「え、なんで」

 私の考えていたことがわかる?

「ここに来る連中は、あの四文字をこぞってそう読む」

 男は横柄に言い、雑多に積み上げられたガラクタの奥で何かを探し始めた。

「ガラクタではない、商品だ。恩人に対して失礼な奴だ」
「あんた、何で僕が何を言う前に答えるんだ」
「どいつもこいつもそう言うから先手を取っただけだ」

 男は「よし」と言いながら、工具箱のようなものを取り出した。

「自分を客観視してると思い込んで、その実、自ら超えられない壁を作っている。そこに気付かないから、お前たちはいつまでもと言うのだ」

 そして、私の手の中にあるものをひょいと奪い取った。男の言うことは、何かを知っているようでもあったし、その他一般に対する愚痴であるようにも思えた。いずれにせよ私の研究内容には守秘義務があるから、強く問いただすわけにもいかない。

 男は私を一瞥し、口を歪めた。

「随分やってくれたな、これは」
「……助かるのか?」

 男は治療をしてくれるようだった。

「俺は、お前たちの言うヨグなんとかとは違う。何でもかんでもをカクノゴトクにできるわけじゃない」

 男の言葉は、私の感覚の斜め上を飛んでいく。しかし、男の手際は素人目にではあるが極めて良く、着実に治療が進んでいく。半分飛び出した目玉や、裂けた腹に折れた手足まで、白い布の奥で元通りになっていくのがわかった。

 元通りに――。

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