セイゼン眼球ケーブル 第壱話

美味兎屋・本文

 頭がクラクラする。意識が朦朧として、まるで湿った蒟蒻こんにゃくの上を歩いているようだ。着ているものは草臥くたびれて、靴もいいだけ擦り切れていた。古びただけならまだ貫禄があるとも言えようが、冷静に我が身を振り返ってみれば、羽織っているコートのあちこちは破れ、まるで集団暴行でも受けた後のように破れ、裂け、ボタンの類はひとつも残っていなかった。

 ──集団暴行?

 ああ。そうだ。

 そうなのだ。集団暴行だったのだ。

 あの時、突然後ろから押さえられ、暗いところに押し込まれた。誰がやったのか、何人がやったのか、それはわからない。覚えているのは、真っ暗だったこと、気がついたらゴミの山に埋まっていた事、それだけだ。得体の知れない虫が何匹も、服の内に外にとちょろちょろとしていた。つんとした悪臭は潰してしまった虫の体液由来なのか、それとも周囲のゴミから立ち上るそれなのか。いずれにしても気持ちの悪いものだ。

 全身が痛い。指先は擦り切れて、まるで目の粗い紙鑢サンドペーパーでもかけられたかのようだった。赤黒い擦り切れは、血が乾いた痕だろうか。髪の毛もバリバリとしていて、とても見せられたものではないだろう。顔もカサカサしていて、こするとまるで消しゴムのかすのようなものがボロボロと落ちた。擦れば擦るだけ、落ちた。

 幸い、今は夜中だ。ごくまれに車が通り過ぎていくが、誰も私なんかには関心を払わない。私がどんな格好をしていたとしても、誰も私なんかには興味を示さないだろう。あっ、誰かいる――その程度。記憶にすら残りはしない。そんなものだ。

 だいたいに於いて「誰かが私を見ている」なんて思うのは妄想だ。誰も私なんか見てはいない。見たとしても数秒後には彼らの中の私の姿は、極わずかな特徴しか描かれていないカオナシになっている。そのカオナシは確かに私をモデルにしていたとしても、到底、私なんかではないのだ。私なんて単なる契機きっかけにすぎない。

 ――はて?

 私は何でそんなことを考えたのだろう。そういえば、こうなる前の私は何をしていたんだっけ。至極普通いわゆるひとつのサラリーマンだったろうか。思い出せないが、スーツらしい服装からすると、その可能性はあるだろう。

 身体が重い。関節という関節がギコギシギコギシと音を立てているようだ。油が足りない。目に痛みがあって、まるで意思とは無関係に上下運動をしているようでもあった。クラクラと世界が揺れる。まるで誰かが悪戯いたずらで揺らす、濡れた蒟蒻こんにゃくの上に立っているかのように。私はたまらず足を止め、古びた電柱に片手をついた。息をするたびに、キィキィという妙な音が混入して、私はとても不安になった。

 そういえば。

 そういえば、私は何処どこに向かって歩いているんだ。目的地でもあるというのだろうか。いつまでに、どこへ、なんのために? 知らなければ不自然なのに、私はそのことにそれほど不安も不満も抱いていない。客観的に考えてとても不自然だったが、他ならぬ私自身がそう思っているのだから、この現状を肯定する他にない。

 電柱から手を離せないまま、私は今歩いてきた道を思い出そうと試みる。確かに私は曲がったり横断歩道を渡ったりしてきているようだ。となれば、は無意識に何処どこかへ向かっているのだとしか思えない。身体が勝手にそちらへ歩いていくのだ。およそ私自身の意志や意識とは無関係に。

 頭の内側にチリっとした痛みを感じて視線を上げると、ギリギリ二車線の道路を渡った先に、奇妙なほど正確な立方体が見えた。普通の住宅街の中にある立方体。精緻せいちな芸術とも言い得る立方体だったが、周囲との関係を考えると、大層不気味でもある。この建物の存在の意味が、私には判然わからない。

 だが、私の身体はどうやら其処そこを目指していた。危うい均衡を保ちながら、私は道路を渡りきる。客観的に見る私の姿は、さながら泥酔した幼児のようだ。立方体に食い込んでいる玄関フードが、目の前にあった。玄関フードとは、普通は建物から張り出しているものだ。ということは建築の段階から、これをひっくるめてデザインしていたのだろう。

 玄関フードのスライドドアは開けられていた。その奥には普通のドアがあり、おそらくは……というより普通は玄関に通じている。ドアのかたわらには、薄汚れた真っ赤な看板らしいものが置いてあった。その赤の中に、美・味・兎・屋という絶妙に物騒な組み合わせの四文字が黒々と踊っている。

 これはなんだ?

 ビミウサギヤと読むのだろうか?

 私は一秒から一分程度、その場で真剣に考えた。

だ。入れ」

 一切の兆候無しにドアが開き、白衣にメガネといった装束の男が現れた。私は驚いて尻餅をついてしまった。傍から見れば、玄関のドアに弾き出されたように見えるだろう。

「大事に扱え、壊れたら面倒だ」
「あ、はい、すみません」

 反射的に謝る私。謝ってしまう私。意味もわからないのに、何が誤っているのかもわからないままに謝っていた。これが私という人物の性格なのだろう。卑屈だ。なんて卑屈なんだ。

 私はまるで他人事のように、私を分析していた。いつものように。

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