私はいつものように帰路についていた。時刻は二十三時をとっくに過ぎている。残業の多いこの業界、この時間ならまだ早い方だと私はいつものように自分を慰める。綺麗に縦半分に割れた月は、その下半分をこれまた綺麗に雲に隠されていた。夏の名残さえもすっかりと駆逐された冷たい風の中、私は道路の真ん中をふらふらと歩く。疲れてるのだから仕方がない。もうそんなに若くなんてないんだから。
おや?
いつもの風景の中に違和感があった。なんだろう。速度を落として注意深く前方を見つめて、しばし立ち止まって考えて、そこで気が付いた。そうだ、あの角地は建て替えか何かの工事をしていた。更地に前は、古い一戸建てがあったはずだ。いつの間にか工事が終わったのだろう、そこには見慣れない立方体の家が鎮座していた。この至極普通の住宅街の中で、その立方体は妙な存在感――威圧感と言ってもいい――を持っていた。建てられてからまだ数日程度のはずなのに、外壁はそんなにぴかぴかでもない。壁の色はなんだろう。灰色のように見える。玄関フードの中にある灯りは、何年も点けっぱなしだと言われても納得の点滅具合だ。灯りの覆いもお世辞にも綺麗とは言えない。思わず凝視していて気が付いたのだが、玄関フードの中には小汚い看板のようなものが置いてあった。
私は道路の真ん中で無意味に思考する。現状について、だ。
だが気が付くと、どういうわけか私はその建物のすぐ前に立っていた。まったくどういうわけかわからないが、疲れているせいかもしれない。さすがにここまで近付くと、看板の文字がはっきりと見えた。薄汚れた赤い背景に、これでもかと言わんばかりに黒々と、四つの漢字が書かれていた。その四つの文字はこの上なくどす黒く――。
「美味兎屋……?」
「ミミトヤだ」
突然背後から声をかけられ、私は腰が抜けるほど驚いた。「吃驚して跳び上がる」なんていう現象を体験したのは初めてだ。
「あの、ここって、な、なんかのお店なんですか?」
「ナンカノとは失礼な。失礼だが、お前の言う通り、ここは確かに店ではある」
男はなぜか白衣を着ていた。フレームの細い眼鏡をかけており、長身痩躯というのがぴったりとくる。年の頃は辛うじて三十路、だろうか。
「三十五だ」
「はぁ……」
と、生返事をしてから、私は更に驚いた。何も口に出したわけではないのに、彼はそう答えたのだ。
「誰も年齢のことだとは言ってないだろう」
男はまたもそう言うと、私を押しのけるようにしてガラガラと玄関フードのドアを開け、その奥のドアの向こうの玄関に入っていった。そっけなく玄関のドアが閉められ、私はこの不思議な感覚をもてあました。玄関フードの透明なプラスチック張りのドアは中途半端に開いたままで、それがなおさら私を迷わせた。自分自身にでさえ、この一連の現象をうまく説明できなかった。私は今、いったいぜんたいどういうシチュエーションに置かれているのだろう?
「おい」
いきなり音もなく玄関のドアが開いた。さっきの男が上半身だけをこちらに出して、私を剣呑な眼差しで見つめていた。そして、
「そんなところで突っ立っていられては商売の邪魔だ冷やかしなら説教してやる何かを見たいのなら見せてやるから早く入れ」
男は一切の句読点なくそう告げた。
私はどうしたら良いのかわからず、うんともすんとも言えなかった。勿論、こんな得体の知れない男の家に上がりこむ勇気もない。男は片眉を上げて私を睨みつけ、「ふん」と不満そうに息を吐いた。
「どうやらお前は客のようだ。客なら入れ。取って食ったりはせん」
「はぁ……」
ここは住宅街、しかも夜中だ。何かあっても大声を出せば、もしかしたら助けてもらえるかもしれない。それにこの男に睨まれている限り、私はここに背を向けて歩き出すような自信がない。恐ろしい、というよりもっとこう、根源的な何かが私をがっしりと捕まえていた。
私はやむなく、その建物に足を踏み入れた。
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