ゼロゼロシイタグ 第弐話

美味兎屋・本文

承前

 その建物の内部は、ふるき良き古本屋のようであり、個人経営の小さな雑貨屋のようであり、或いはアンティークショップのようであり、潰れる間際のCDレンタル屋のようにも見えた。されども外から見た印象よりも、そこはずっと広かった。薄汚れた暗い雰囲気は、外観そのままだったと思うが――。

 白衣の男は一番奥まった場所にある古びたソファにどっかりと腰をおろした。どう肯定的に見ても接客向けの態度とは言えなかった。

「あの、『店』って言ったって、値札も見当たらないじゃないですか」
「値札? 値札なんかに何の意味がある」
「値札がなきゃ、値段がわからないでしょ」
「じゃぁ、値札があれば値段がわかるのか?」

 彼は何故そんな当然のことをくのだろう。私は彼を再度しげしげと眺めた。私はと言えば、もう相手のテリトリーに入ってしまったというある種の諦めからか、さっきよりは幾分落ち着いているようだ。自分は案外神経が太いのかもしれない。私は男を見据えて口を開く。

「そりゃそうでしょうよ」

 私は自分に気合を入れるために、意識的に声を大きくして先ずそう言った。そして畳み込もうと早口に続ける。

「値札の数字の数と、自分の財布の中身を相談して、何を買おうかとか、これなら買えるかなとかするじゃないですか」
「じゃぁ、それにはゼロを十二個ばかりつけておこうじゃないか」

 男は私の前にあった古びた人形を指した。同時に投げ渡されたタグ――恐らく値札のつもりだろう――には、「壱」と十二個の「0」が書いてあった。
「十二個……一兆円、そんなばかな」

 もし何かの間違いで、この古ぼけた人形が国宝級だったとしても、一兆円なんてありえない。しかし、男の顔は真面目、というよりさっきからまったく表情が動かない。

「お前はそれで値段が分かると言ったじゃないか。だからわざわざ値札をつけてやったのに、それをとは何事だ?」
「確かにそう言いましたよ。でも、こ、この数字は、常識外れもいいところですよ!」
「誰の常識だ」
「誰のって、一般的な常識ですよ」

 ムキになるのもバカらしくなってきた。私は男を見る。男は腕組みをして私を睨み付けていた。その眼力に押されて、私は思わず一歩下がる。肩がごってりとニスが塗られて黒光りしている書棚に当たってしまい、私はそれ以上退がれなくなった。

「じゃぁ何かい。お前は自分が一般的だと思ってるのか。お前の価値観は一般的なんだと」
「そうです、私はただの平凡なサラリーマンですよ。十分一般人だ」
「一般人ね。そうか」

 男は盛大に足を組み替えた。

「じゃぁそんな一般人、凡俗にして凡庸なお前にくが、お前はそのとやらに疑問さえ感じた事がないんだな」
「それは……たまにはある」

 ニュースや雑誌の報道に疑問を感じる事や、そこいらの連中の会話に「異議あり」と言いたくなる事くらいある。

「じゃぁ、お前はその手の感覚を抱いている時は一般人ではないわけだ。普遍的な一般人ではないと。凡庸で凡俗でつまらぬ人間であることは変わらぬとしても」

 こいつは屁理屈だ。私はまともに言い合っていては勝てない事を悟った。

「で、でも、私は大半では一般的だ。何もかもに異議を唱えてるわけじゃないんだから」
「大半? 何を基準に大半って言うんだ、お前は。総量を知ろうともしないくせに、自分の感覚のような模糊もこたるものをして大半?」

 男は淡々と、しかし切れ目なく言い募る。

「もしかすると、お前がとある事象を常識だと認知するのは、お前がだけなのかも知れないのだぞ。それはと違う、とな。そうだとすれば、お前は非常識のみで構成されていることになるだろう? 違和感がなければ疑問を抱くことすらない。自分の中の常識と向き合うことすらしない。できない。と、いうことは、お前は常識を知覚してないってことだ」

 男は一気にプレッシャーをかけてくる。私は言い負かされないようにと、息を吸い込んだ。

「そんなの、知覚するまでもないってことじゃないですか?」
「ということは、大半という言葉なんて出てこないはずじゃないか?」

 どうやらこの男の頭の回転は、私をはるかに凌駕するらしい。私はいつ以来か使っていないであろう脳の末端部位まで活性化させようと懸命に考える。そして言う。

「そんなこと言ったら、そこらじゅうみんな非常識人じゃないですか」
「脳が活性化してやっとでその結論か。ならばよろしい、その通りだ」

 男はニヤリと笑った。

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