濡レ雑巾ノマス秤 第壱話

美味兎屋・本文

 また深夜残業だよ。月の半分以上は終電を逃がす。

 いい加減うんざりだ。世の中は不景気だ。ボーナスだって貰えない。そのくせ公務員様は、普通の企業の三倍も四倍ももらっていやがる。赤字を抱えたって誰一人クビにならないし、我々庶民に何を言われたって下っ端は無視するわけだし、上の連中はそれこそ神様気取りでの椅子にふんぞりかえっている。

 一方で私たちは、どんなに頑張ったって評価されない。言葉で何と言われようと給料は上がらない、ボーナスは貰えない。そのくせ、意味のわからない人事で他の連中は昇進していく。私より五年も遅く入社したチャラ男が、いまや上司だ。私は毎日遅くまで仕事してるのに、のあいつは定時でいなくなる。炎天下の中這い回るように営業したって、この不景気じゃ契約なんて取れやしない。そのくせあの課長様は成績が悪いと突き上げては、あてつけのように大口の契約を取ってくる。コネがあるからできるのだ、そんなこと。

 窓の外を足早に遠ざかっていく夜景を眺めつつ、ラブホテルの横を通り過ぎながら、私は溜息をつく。あの中では暢気のんきにイチャついてる奴らがいるんだろうな。このご時世に本当に危機感のない奴らだ。

「あ、そこのコンビニで止めてくれ」

 うやうやしく差し出された二十円のお釣りを無言で受け取って、私はコンビニに入る。成人誌を立ち読みしているガキが目障りだった。んなもん、買って家で読めよ。舌打ちでもしてやりたい気分だったが、物騒なこの世の中だ。そんな事をして絡まれても面倒だ。無関心を装うのが一番賢い。君子危うきになんとやら、だ。

 特に買いたいものなどなかったのだが、いつの間にかペットボトルのお茶を手に取っていた。どうせ帰ったらすぐに寝るのに。

 こうして無駄遣いが増えるんだよなぁ。

 無愛想な店員に無愛想に応じて、私は今度こそ家へと向かう。

 どうせ誰も待っていない真っ暗に冷めた家だ。敷きっぱなしの布団だけが道具本来の役割を果している。冷蔵庫さえ、まともに使っちゃいない。

 歯を磨くのもだるいなぁと思いながら歩いていると、いつもの帰り道に阿呆なガキどもがたむろしているのが見えた。勉強もしないでチャラチャラ遊んでいる阿呆だ。高校さえ卒業できないか、していないだろう。いや、あんな高卒がいたらいたで迷惑だ。実際に今もそれで迷惑を被っている。

 私は高卒だ。大学は経済的事情で諦めた。社会経験は長い。長いのに、高卒であるというだけで昇進さえできない。社会も会社も、学歴なんて関係ないとはよく言う。しかし、だったらこの差別待遇は何だ。たいした能力もない大卒の連中の方が、明らかに優遇されているじゃないか。

 私はそんなことを考えながら、仕方なく別の道を通ることにした。あんなのに絡んで刺されでもしたら死にきれない。

 一本違う通りに出ると、なんだか違和感を覚えた。視界の隅に立方体の建物が見えた。どこか薄汚れた印象の玄関フードの中に、赤い看板のようなものが立てかけられている。神経質に明滅する玄関燈が、赤い看板をじれったく照らしている。

 通りを渡って近付いてみると、黒々と踊る『美味兎屋』という四文字が見えた。

「びみ……うさぎや?」
「ミミトヤだ」

 突如耳元で聞えた男の声に、私は飛び上がらんばかりに驚いた。心拍数が数倍に跳ね上がったかのようだ。

「なんだ、あんた、いつのまに」
「WHAT、WHO、WHEN、お前、どれから訊きたい」

 痩身で背の高い、眼鏡をかけた男が私の真後ろに立っていた。男はこんな夜中に何故か白衣を着ていた。手には何も持っておらず、コンビニ帰りというわけでもなさそうである。かといってこのあたりに何らかの研究機関のようなものがあるはずもなく……。

「ど、どれでもいい。こんな夜中に驚かすな」
「他人の領域ドメインをじろじろと覗き込んでおいてよく言う」

 男は無表情に言った。ここは……こいつの家なのか。奇妙で不気味な立方体。

「まぁいい。興味があるなら入れ」

 男は全くトーンを変えずに、半ば強制的な口調でそう言った。

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