濡レ雑巾ノマス秤 第参話

美味兎屋・本文

承前

 人間の一部――!?

 ゾクッとした。背筋が粟立った。そんな私を見ている男は、退屈そうに眼を細める。

「別に有機体ではない。死体ではない。お前たちの定義に拠ればな」

 そして、面白くなさそうに言った。私は膝が硬直している事に気がついた。

「それで、随分と不満たらたらな様子だったが、お前はいったい何に対してそんなに不満なんだ」

 男の目が私を直視する。

「当ててやろうか」

 私は目を逸らした。

「自分が評価されてない。これだろう?」
「な……」

 まるで心を読まれたかのような気がした。総毛立つとは、まさにこのことか。

「自分はこんなに一所懸命に仕事をし、汗水たらして何年もこの業界に身をおき、経験も実績もそれなりにあるのに。それなのになぜ、大学を出て数年の奴らの方が評価されて、ましてや自分を追い越していくんだ。これでは自分はただの当て馬じゃないか。自分は踏み台にされたくないし、踏み台以上の仕事は少なくともしているつもりだ――というのが、お前の主張だ。違うか」

 思わずあとずさ――れなかった。足が竦んでいた。

「学歴なんて関係ない」

 男は立ち上がった。そして傍に置いてあった分厚い本を手に取った。が、すぐに置いた。手に取ることだけが目的だったかのようだ。

「そんな言葉をいるんじゃないだろうな」

 私は奥歯の震えをこらえた。

「そんな文字列はな、上位の連中が下位の連中に言うことを聞かせるために吐き出す稚拙な詭弁ソフィストリだ。そして、下位の連中が上位の連中をおとしめるために用いたがる姑息な洗脳工作だ。民主主義を構成する多数派マジョリティというのは、概して下位に属するからな。蠢く亡者のごとし、だ。そんな屑ほども価値のない亡者であっても、ぐちゃぐちゃと寄り集まって大声でがなり立てれば、それは効果があるだろうよ。は幸いにも多数決みんしゅてき社会だからな。バカほど声が大きいし、為政者いせいしゃたちには大きな声しか聞こえない」

 だがな、と男は続ける。

「学歴云々の本当の意味は、上位から下位への工作手段だ。とりあえず自分たちを下位の連中と同列にいると錯覚させておけば、圧倒的多数のバカな連中はおとなしくなる。下位の連中が押しなべてバカというわけではないが、バカが多数を占めているのはバカにでもわかることだろう? 上位の連中にしてみれば、幸いにしてここは多数決の社会だからな。バカさえ黙らせておけばそれ以外の多数派の中の少数派などどうとでもなるし、何なら無視したって構いはしないのだ。もっとも、この学歴なんて関係ない――こういった表現には彼らの優越感の顕示という意味も含まれているのだがな」

 男は何やら怪しげな形のグラスを手に取ると、ソファの横に置かれていたボトルを手に取った。ワインだろうか。

「そんなことにさえ気づかずに、そんな詭弁ソフィストリに受けていたのだとすれば、それはお前の知恵が足りていないとしか言えないだろう。評価されないのは実に、実によく分かる。お前は多数派の中の多数派、つまり、バカだ」

 それに、と男は液体をグラスに注いだ。琥珀色の液体にも見えたが、単なる水のようにも思えた。色は周囲の品々の反射でよくわからないのだ。

「学歴云々が評価にどうこうなど、お前の自意識過剰には恐れ入る」

 どういうことだろう。

「お前の言うところの評価されている連中が、お前のようなその他大勢の履歴書に興味があるわけがないだろう。お前のちっぽけな経歴ごときなんざ、五分以内に記憶から追い出されるだろうさ。それとも何か、お前は会社で自分の学歴を掲げて回ってでもいるのか?」

 辛辣だった。頭に血が上りかけたが、それだけだった。

「お前と彼らでは根本が違う。お前が呑気に遊んでいた時に、彼らは少なからず勉強し、努力し、耐えていた。人間性の追いつかないヤツがいることは否定しないが、考え方、いや世界が違う。彼らの大部分は、お前なんかとは違う次元で物を考えている」

 男の眼鏡の奥の視線が鋭くなった。

「お前のようにその時その時の苦労を避けられるだけ避け、いい年になってそれが出来なくなったら途端に全てを現在形に収束コンバージェンスさせたがるヤツが大勢いる。にするだけに足る過去を持っていないから、そんなことをそうするのは簡単だからな。だから彼らは言うのさ。学歴なんて関係ないとね」
「それだって、今はこんなに努力しているじゃないか」
「結果も出しているか? 少なくとも周囲に満足されているような結果ではないだろう。お前は自分の出しているそのとやらを及第点だと思っているかもしれんが、それはお前の生ぬるい自己評価基準の賜物に過ぎんよ」

 掌に汗が浮かんでいた。右手のコンビニの袋がイヤに重く感じられた。

 男はもぞもぞ動くどことなく湿った感じの赤い布を手に取った。それは、にゃぁ、と鳴いた。ゾッとした。ひどく、ゾッとした。

次話

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