濡レ雑巾ノマス秤 第肆話

美味兎屋・本文

承前

「悔しいか?」

 男は目を細め、口を歪めた。

「悔しいだろうな。枠組みだけは一人前、そのくせ中身は風船のような自尊心が突付つつかれたのだからな」

 赤い布は、くぅん、と鳴いた。顔無しのマネキンの肩が、クルンと痙攣した気がした。

「根拠のない自己評価だけを標榜して、皆はそれを認めろと叫び。しかしながら、何故他人がそれを首肯しないのか、追及することさえしない――そもそもできない。自分の頭で考えない。考えられない。それがお前の頭の中に詰まっているのは、思考回路に見せかけた単なる条件反射だけだ。そら、お前は差し詰め、そこの頭の開いた人形のようなモノだ」

 がたり。

 別の大きな人形が倒れた。開いた頭の中には、何本かのカラフルなコードが乱雑に詰め込まれていた。

「お前は自分の姿を鏡で見られるか? 自分の顔を直視できるのか? もしかしたら、お前の顔はそこのマネキンのようなものかもしれないぞ?」

 顔ナシの――焼けた顔の――マネキンがこっちをじっと見ていた。窪んだ眼窩の奥に、この男と同じ深い淵のようなものを見た気がした。ただの人形とは、到底思えない。もはや奥歯が鳴るのを止められない。

「そんな程度のお前の姿など、誰が直視しようとするなんて思っている。お前の独りがりな演説などに、誰が耳を貸すものか。実のない武勇伝――傍から見ればたかだかほんのちっぽけな武勇伝ほど聞く価値のないものはないだろうし、お前だってそう言ってきたはずだ」

 指から力が抜けた。コンビニの袋が床に落ちた。びしゃりと音がした。

 びしゃり?

 ペットボトルが割れたのか?

 私は恐る恐る足元を見た。

 お茶はペットボトルの中でじっとしていた。ペットボトルは床の上をごろごろと行ったり来たりしていた。半透明のビニール袋から、透明な液体が流れていた。私の右手の指先から、ぽとりぽとりと水滴が落ちていく。それは足元に大きな水溜りを作っていた。その中に、部屋の明かりと私の姿がぼんやりと浮かんでいる。

「お前は結局、他人から評価されていないと妄想し、そのくせ他人を評価しようとも、自己の再評価をしようともしなかった。今現在の自分のテイタラクを社会や他人のせいにするばかりで、そこから這い上がろうとさえしなかった。口先でそれらを相対的におとしめようという卑陋ひろうな努力はしていたようだがな」

 私の指先から、とめどなく液体が流れ落ちていく。

「一つ教えてやろうじゃないか」

 男は私の足元を見ながら脚を組み替えた。

「世界は何も間違えてはいない。社会も他人も。そこでお前が認められないのは、彼らが間違えているからじゃない。お前が所詮はその程度でしかないということの実証だ。お前の存在など、そんなものに過ぎない」

 ぴちょん、ぴちょん、とイヤに甲高い音が部屋に反響している。視界の端で、赤い布が飛び跳ねていた。もぞもぞと軽快に、私の足元に這って来る。赤い布が私の足元の水に浸る。水が赤く染まっていく。そこに映る私もまた赤黒くなっていく。

 ぽたり、ぴたん、という音と共に水面が揺れ、私の赤黒い姿もゆらゆらと歪む。

「上と下と、どっちが本当のお前に近いのかな?」

 男は立ち上がり、動けないでいる私の隣に立った。

「自分らしくありたいと叫ぶのならそうすればいい。だがな」

 沈黙。

 水が爆ぜる音と、濡れた雑巾が弾んでいるような音が響き渡っている中で。

「お前には、世界がお前に合わせなければならないほどの価値はないのだ」

 残念だったな――。

 男はそう言うと、部屋から出て行った。

 私は紅く染まった空間の中で、まるで人形のように固まっていた。

 右足に、布がもぞりとじゃれついた。

濡レ雑巾ノマス秤・完

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