ほら見てみて――言われて、僕は空を仰ぎ見る。僕たちがいるのは、闇の中に沈む森。鬱蒼たる夏の樹葉が藍色の空を翳らせている。湿り気を帯びた大気の向こうに、燦然たる巨大な輝きがちらちらと揺れていた。
「あれは?」
僕は隣に立つ彼女の横顔を見た。暗黒の樹海の内にあってなお、その横顔は鮮やかに輪郭を保っていた。星の輝きに照らされてでもいるかのように、その青白い横顔は、美しかった。
「わかんない」
僕は答える。でもどうやら彼女は、僕が星についてなら何でも知っている——そう思っていたのかもしれない。空のうちの本当にほんの一部しか見えないこんな景色の内にあって、その広大無辺な夜空の全貌を思い浮かべるのは本当に難しいことなんだよ。
夜空というのは実際の所、実に相対的なものなんだ。僕と彼女のように、互いの手の平の接点があって初めて、僕は彼女を認識できる。さもなくば僕は彼女を僕の中に描き、僕の見る彼女を僕の妄想と区別できなくなるだろう。彼女と手を繋ぐ、それは僕が彼女を認識するためなんだ。
……そんなことを思っていると、彼女は掠れた声で囁いた。
「朝まであとどのくらいかな」
「さぁ」
僕らは時計を持っていない。携帯端末も置いてきた。よしんば何かしら灯のようなものを持ってきていたとしても、こんな闇の中でそれに猛威を振るわせるような無粋はしなかっただろうけど。今はだって、ほら、夜の時間だから。
「でも、行くんだろ?」
僕は訊いた。彼女は応える。
「もう戻るに戻れないし」
そうだね、と、僕は頷いた。月のない空、一つ輝く——多分、ジュピター。ぐるりと巡る星座を追う余地も余力も時間もなく、僕らはただ立ち竦む。
そして、また歩き出す。僕は問う。
「歩ける?」
「歩く」
彼女は本当に頑固なんだ。言ったら絶対に実行する。決して曲げない。僕はそんな彼女と何年もこうして付き合ってきた。これはもしかすると僕の傲慢なのかもしれないけど、彼女と付き合えるのは、たぶん、この世で僕以外においてはいないと思うんだ。彼女と最後まで添い遂げられるのはきっと僕しかいなくて。だから、僕は彼女とこうして手を繋いで、夜の森を歩いている。まっすぐに。
最初の頃こそ、僕らは北極星を目当てにしていたのだけれど、そんなものはとっくに見えなくて。ただ枝葉の間に、デネブとアルタイルとヴェガ——夏の大三角が時々見えたり消えたりする。足元も覚束ないのに、どうしてこうも空を見上げたくなるのかなんてのは、ついにわからなくて。
「あっ、音が聞こえてきた」
彼女は言う。風の音のようにも聞こえる、さらさらと透き通る音が、僕たちの行く先から聞こえてきた。笹の葉がそよぎ、ミズナラやイタヤカエデの葉がひっそりと僕らを囃し立てる。行け、行け、行ってしまえ――彼らはそう言っていた。僕はなんとなくそんな気がして、ふと近くの樹の幹に目をやった。色鮮やかなオオミズアオが張り付いてその妖しく美しい羽を休めている。彼は僕らを見ているのだろうか。
そうしていてもなお足を止めない僕らの耳に、今度はカエルの合唱が聞こえてきた。水場が近い。それはこの輝くような風と水音によって、明らかにされていた。それこそ僕らの、否、彼女の求めた場所だった。だから僕らは絶対に、最後に行こうと決めていた場所だった。二人で旅をするのは、ここでおしまいになるんだ。そんなことは十分すぎるくらいにわかっていた。今の僕に覚悟があるかと言われれば、そんなものはないかもしれない。でも、覚悟をする覚悟だけはしてきたつもりでいるんだ。
僕は川の縁に辿り着いて、ようやく言った。ずるずると先延ばしにしてきた別れの言葉だ。
「ここが終着点、だね」
「そうね」
僕は彼女の顔を見る。すっかり空は輝いていた。燦々と降り注ぐ星々の喧騒。僕らの頭上を渡る天の川。夏の大三角。カシオペアなんて星々に埋もれてしまっていてもはや何処にあるのかすら判然としない。ちっぽけで頼りない北極星なんて、もうとっくに星界に沈んでいた。
僕らを照らす輝きは、星々だけじゃない。今や目の前に広がる川の上を、無数の光がふわりふわりと漂っていた。蛍たちが、一生の力を使い果たす勢いで輝き、踊っている。僕らの目の前を舞い踊るオスたち、川べりの茂みに密やかに佇むメスたち。その輝きは星々にすら劣ることはなかった。
「お別れね」
「そうだね」
僕は頷き、ようやくその手を離した。彼女は「うん」とうなずいて、そっと腰を下ろした。僕もその隣に寄り添うようにして座った。少しでも近づきたくて、でもくっつくことはできなかった。触れてしまった瞬間に、彼女は全てのエネルギーを使いつくしてしまうだろうと、僕は恐れたのだ――この期に及んで。
座って空を見上げてみると星と蛍の区別なんてほとんどつかない。瞬く星、彷徨う光。明滅はさながら輝くワルツのようだった。
「きみはもう動けないんだね」
「そう、あたしはもう動けないの」
彼女は頑固だ。言い出したら聞かない。彼女にとって命令は何よりも優先される。僕の言葉なんかよりも。
「一つ訊いていいかい?」
「一つだけなら」
僕は心の中で舌打ちした。彼女は頑固だから、一つと言ったら一つしか答えてはくれないんだ。ここにきて僕はたくさんの問いかけをしたいと思っていたのに。僕は自分の迂闊さを呪う。
「きみが止まってしまう前に、一つだけ訊いていいかい?」
僕は性懲りもなく、また一つと尋ねてしまった。彼女は「ええ」とその陶器のような表情で肯いた。そこには悲哀も何もなくて、ただ命令を待ち受ける、いつもの表情があった。まるで操作卓のように無機的な彼女の肩を、僕は一大決心を以て密かに抱き寄せた。そうすることで僕は冷たい彼女を温めようとでもしたのかもしれない。ばかばかしいとは思わなかった。
「あたしが止まる前に、一つ質問を訊くわ。だから、早く言ってちょうだい」
「僕が質問をしなければ……きみは止まることはないのかい?」
「あなたは今質問をしたわ。だから、あたしは――」
止まってしまった。
その最期はひどく呆気ないものだった。
彼女を目覚めさせる技術は、もうこの世にはない。永久にその美しい姿のまま、彼女はこの恍惚の闇の中で眠るのだろう。僕がいつかどこかで朽ち果ててしまったとしても。
僕にとって彼女は希望だ。
「ヒカリ……君にはこの光の庭がふさわしい」
いつか人類がこの光の庭に辿り着くように。眠る叡智を手に入れられるように。
ジュピターを見上げながら、僕は祈る。
「ほんとうに、君が眠るのに相応しい場所だと思う」
僕は思う。そう思った。
「君が隠れるのに、これ以上の場所はないよ、きっと」
そう思わずには、いられなかった。
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