カヤリが意識を取り戻したのは、それから三日が経ったころだ。例の「椅子の部屋」は恐ろしいほど濃密な魔力で溢れていた。ハインツとヴィーの会話の直後に発生した妖剣テラからの魔力の過剰供給によって引き起こされた現象で、その濃度は大魔導とはいえど致命傷を負いかねないほどのものだった。そしてカヤリはその中にいた。
部屋から溢れ出ていた魔力が落ち着きを見せ始めた三日目になって、他の研究員たちとともに状況を分析していたヴィーの意識の中に、カヤリの声が聞こえてきた。
『ヴィー、どこにいるの?』
『カヤリ!?』
鮮明に聞こえてきたその声に、ヴィーは跳び上がらんばかりに驚いた。喜びが大きかったように思う。
『ねぇ、ヴィー。この椅子の部屋から出てもいい?』
『ちょ、ちょっと待て。そこいら一帯、魔力の濃度が濃すぎるんだ。扉を開けたらまずい』
『そんな気はする。まるで水の中にいるみたいな感じがするよ』
ヴィーは魔力にすっかり汚染されてしまった扉のすぐそばまで歩み寄る。ついてきた研究員たちが止めるのも聞かずに、扉に触れる。稲妻に打たれたかのような衝撃が掌から脳天までを貫いたが、ヴィーは呻き声も上げなかった。
『カヤリ、体調はどうだい。何かおかしなことはないかい?』
『おかしなこと?』
扉のすぐ向こうにカヤリがいる。ヴィーには何故かわかった。
『部屋中がキラキラしててまぶしい。目を開けるのがつらいくらい』
『それは魔力が見えているんだ。大魔導クラスになれば珍しい話じゃない』
『そうなんだ?』
『ああ』
ヴィーは研究員たちを振り返り、離れていろと指示を出す。
『そのキラキラを制御できるかい?』
『制御?』
『思うように動かせないか? 掌に集めてみたり、散らしてみたり、とか』
『やってみるよ』
扉の向こうでカヤリは試行錯誤している。扉の隙間から溢れ出てくる魔力が波打ち始める。カヤリによる何らかの干渉がうまくいっているという証拠だ。
『できてるかも。扉の近くのキラキラをちょっと動かすよ』
そう言うや否や、漏れ出ていた魔力が部屋の中に消えていく。
「自由自在か」
カヤリはもう魔力の動かし方を習得したようだった。ヴィーは左手でゆっくりとカウントダウンして、恐る恐る扉を開けた。
その際に、掌にビリっと痛みが走ったが我慢できないほどではない。部屋から、濃密な、むっとするほどの魔力が溢れ出してきた。危険を感じたヴィーは思わず後ずさった。室内で陣魔法が炸裂したのではないかと思えるほどの魔力密度だった。ヴィーの視界いっぱいにまばゆい輝きが広がっていて、その奥にいるカヤリの姿はぼんやりとしたシルエットのようにしか見えない。
「カヤリ、平気なのか?」
魔力を振り払いながら、ヴィーは室内に駆け込む。が、すぐに動きが重くなる。カヤリが表現したように水の中に放り込まれでもしたのではないかというほどの圧力がヴィーの全身を襲っている。
「カヤリ」
「だいじょうぶ、だとおもう」
カヤリはヴィーの前に走ってきて、ヴィーを見上げた。光を纏った黒髪の少女の姿は、ヴィーの目にはいっそ神々しくすら映る。
「よかった、無事で」
ヴィーはカヤリの肩に触れ、抱きしめる。
「どうしたの?」
目を丸くして尋ねるカヤリに、ヴィーは「ははは」と乾いた笑いを漏らす。
「あたしもどうにかしちまったんだろうね」
ヴィーはカヤリを連れて部屋を出た。研究員の魔導師たちはおろおろと遠巻きに様子を見ていたが、ヴィーが「後始末をしておきな」と一言命じるとようやく落ち着きを取り戻した。後始末と言っても、未だ魔導師クラスでは「椅子の部屋」に立ち入ることもできないだろうが。
「ねぇ、ヴィー」
「うん?」
「髪がベタベタする」
「……三日以上もあの中にいたからね」
「み、三日!?」
カヤリは水色に輝く目を見開いた。そのあまりにも美しい二つの瞳に、ヴィーの視線が惹き付けられる。カヤリの中に蓄えられた魔力が瞳を通じて放出されているのだ。その虹彩はまるで満天の星空だ。
おっとっと……。
ヴィーは我を取り戻し、首をぐるりと回した。首の関節がボキボキと大きな音を立てて、誰よりもヴィー自身が驚いた。
「だ、だいじょうぶ?」
「ん、うん。た、たぶんね」
ヴィーは苦笑して、その見事な赤毛をかきあげた。
「カヤリは異常はないのか?」
「両手、力が入らない」
カヤリは両方の手を握ろうとするが、握り切る前に力が抜けてしまう。
「あれだけの魔力を使ったからな。もとに戻るには、まだしばらくかかりそうだな」
ヴィーはいくらかの願望を込めてそう言った。カヤリは腕を上げるのも億劫だと言わんばかりに、両手をだらりとさげた。ヴィーはその右手を捕まえる。
「それじゃ、風呂でも行くか」
「うん!」
二人は手をつなぎ歩き始める。
「ねぇ、ヴィー」
「ん?」
「てのひら、汗がすっごい」
「えっ」
ヴィーは慌てて手を引っ込めて、服の裾で手を拭いた。カヤリも同じように黒いローブに手を擦り付けて湿気を拭う。
「滑っちゃうからね」
「わ、悪ぃ」
バツが悪そうにヴィーは謝る。カヤリはまた右手をヴィーに差し出す。ヴィーは再び手を繋いだ。
「よし、行こう」
「うん。頭洗って」
「ああ」
二人は研究員たちを押しのけるようにして、一路浴場へと向かった。
コメント