だだっ広い浴場は相変わらずの貸し切りだ。無人を確認したヴィーは、出入り口に施錠をすると豪快に服を脱いだ。カヤリも真似をして黒いローブを脱ぎ捨てる。
「ここにはハインツ様も入ってこられやしないさ」
「だねー」
二人はそう言いながら洗い場に移動する。
「ヴィー、さっきから悲しそうな顔してるよ」
「えっ?」
ヴィーはカヤリの髪を洗う手を止めた。濡れた前髪の隙間から、カヤリの光る目が覗いている。
「ヴィーからずっと聞こえてる」
「聞こえてる?」
「うん。怒ってるみたいな、泣いてるみたいな、なんかそんなのが聞こえる」
そう言って湯をかぶるカヤリ。黒い髪から魔力の残滓がはじき出され、キラキラと散っていく。
「そうか、魔力か」
合点がいったように、ヴィーは呟いた。体内を満たす魔力の密度があまりにも高すぎるために、他人の感情を検知する能力が跳ね上げられているに違いないと。
「はぁ、調子狂うったらないな」
溜息をつきつつ、ヴィーは浴槽に移動した。カヤリもペタペタとついてくる。
「気付けば――」
ヴィーは首まで湯に浸かりながら言った。
「カヤリ、あんたのことを妹みたいに思ってたかもしれない」
「い、いもうと?」
「ああ」
思い出したくもないのに、何故かその姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。
「あたしにもいたんだ。生きていれば今頃、十二歳、か」
「死んじゃったの?」
「ああ」
ヴィーは頷いた。前髪から雫が落ちて、水面で妙に高い音を立てた。
「あたしの魔力の暴走でね。あんたと同じさ。大魔導の力が不意にね」
「そう、なんだ……」
「そ。それで、抑えることなんてできるはずもなくて」
ヴィーはお湯の中で密かに拳を握る。
「結局はさ、家族みんな、焼け死んじまった。みんな灰にしちまった」
「みんな……」
「村の連中はあたしを殺そうとしたんだ。今思えば当たり前のことだよ。だけど、あたしは……家族を皆殺しにしちまったあたしでも、殺されたくはなかった」
「ヴィーが悪いわけじゃない、と思う」
「そういう問題じゃないんだ」
諦観したようにヴィーは言う。
「逃げ惑うあたしは本当に必死だった。その結果、またあたしの炎が人を殺した。あたしが何をしても誰かが死ぬ。そんな状況に――」
「仕方ないよ、だって、ほら、ヴィーは……」
「仕方ないで済むなら苦労しやしないさ」
ちゃぷん、と、お湯が音を立てる。
「ま、そこに現れたのがハインツ様だったってわけ」
「私のときと同じ?」
「そうだね」
もう十年も前の話になるが。
「あたしは大魔導としては半端者なんだ。グラヴァードやハインツ様みたいに全領域の魔法を使えるわけでもない」
そこまで言って、ヴィーははたと思い当たる。
「……あたし、それだから接続実験に使われなかったのかも」
ハインツにしてみれば期待外れの大魔導だった、ということなのかもしれない。ヴィーは下唇を軽く噛んだ。
「それでも、それでもハインツ様はあたしの生命の恩人だ。十年も、こうして育て上げてくれたんだ。感謝してもしきれないくらいさ」
「ほんとう、に?」
カヤリの水色の瞳がヴィーを射抜く。
「……ああ」
ヴィーはぎこちなく頷いた。カヤリを巡るハインツとの口論が、脳裏を駆け巡る。記憶が再生されるたびに、心が疼く。
「ヴィーはさ、何のためにその力を使うべきなんだと思う?」
「え? えっ?」
思わぬ問いに、ヴィーは目を丸くする。カヤリの水色の瞳はヴィーを離さない。その表情は八歳の少女とは思えない程に大人だった。
「なんの、ために、だって?」
「うん」
カヤリはうなずく。その細い手が湯をかき回すたびに、湯気がキラキラと輝いた。
「ヴィーは、人を殺したいの?」
「それは……」
殺したいわけではない。ただ、躊躇いがないだけだ。心が傷まないだけだ。
「あたしにとって、人を殺すことは目的じゃない。手段なんだ」
「しゅだん?」
「ああ、そうさ。目的のために必要だから、そうしているだけだよ。殺して楽しいなんてことはない」
別に、つらくもないけど――。
ヴィーは溜息をついた。その空気の流れに、湯の表面が反応する。
「じゃぁさ、ヴィーは何をどうしたいの? その、もくてきって、いったいなに?」
「世界平和、かな」
「せかいのへいわ?」
「ああ、そうさ」
ヴィーは少し力を込めて頷いた。だが、カヤリは「んー?」と不思議そうな表情を浮かべる。
「平和のために、人を殺すっていうの?」
「尊い犠牲ってやつさ。生贄は、バカな連中に正義の何たるかを教えるのに、一番手っ取り早い方法なんだ」
「んんん?」
カヤリは腕を組んで、唇を尖らせる。
「どうしてヴィーは、手っ取り早い方法を選ぶの?」
「どうしてって?」
ど、どうしてだ?
ヴィーも腕を組んで考え込んだ。カヤリはなおも言い募る。
「それにヴィー、私、せいぎってよくわからないんだけど……。正しいことっていう意味であってる?」
純粋なその問いかけにヴィーは押し黙る。
「ねぇ、ヴィー。正しいことって、みんなにとって正しいの?」
「そ、それは……」
なんと答えればカヤリは納得するのか。そしてあたし自身が満足できるのか。ヴィーは眉間に皺を刻んで考え込む。カヤリはそんなヴィーの顔を恐る恐る覗き込んでいる。
「あ、あたしたちは、絶対的な正義を知っているんだ」
「ぜったいてき? それは、誰が見ても正しいって思うってこと?」
「そ、そうさ」
その答えに、カヤリは「おかしいなぁ」と天井を眺めながら呟いている。
「でも、その正義のために殺された人たちは、それが正しいだなんて考えないと思う」
「仕方ないじゃないか」
「仕方ない……のかなぁ」
カヤリはぶくぶくとお湯に顔を沈めた。ヴィーは複雑な面持ちでその様子を眺める。
「正義が実現すれば、何万人だって救われるんだ。その実現のために数百人、いや、数千人が犠牲になったって――」
「でもさ、ヴィー」
カヤリはヴィーを直視する。
「死んだ人にはそれが全部なんだよ? 大事な人が死んじゃった人にも、それは全部なんだよ? そんな人たちには、正義がどうとか、そんな言葉は聞こえないと思う」
八歳の女の子に、ヴィーは完全に押し負けていた。ヴィーは沈黙でそれをやり過ごそうとする。
「私は、人が死ぬのは間違えていると思う」
黙ってしまったヴィーに追い打ちをかけるように、カヤリははっきりとそう言った。ヴィーは赤い瞳で思わずカヤリを睨みつけ、そして我に返ってお湯を顔面に叩きつけた。カヤリは肩を強張らせたが、それでもヴィーを見るのをやめなかった。
「バカなんだ、どいつもこいつも。話しても理解できない。自分のことばかり考える! だから――」
「それって」
カヤリはヴィーの両肩にそっと手を置いた。
「それって、ヴィーたちも同じじゃない?」
「なんだって!?」
ヴィーは思わず立ち上がった。弾けた飛沫がカヤリの顔にかかる。カヤリはそれでもヴィーをじっと見ていた。
「人を殺すことで自分たちの言いたいことや、やりたいことをやろうとするなんて間違ってるよ」
「でも、そうでもしないとあいつら、理解できないんだ!」
「押し付けた正義が、もし受け入れられたように見えたとしても……。それって理解されたってことになるのかな」
その正鵠を射る言葉にヴィーは震える。
「ば、バカばっかりなんだ。どいつもこいつもバカで、だから、終わらないんだ、こんなことが^^」
「でもさ、ヴィー。ハインツはバカじゃないよね。あのグラヴァードって人だってバカなんかじゃないのは私にもわかる。ヴィーだって、トバースだって。バカじゃない。でも、戦ったよね。殺し合ったよね」
「それは……」
「バカだから戦いが終わらないとか、世界が平和にならないとか、それって違うんじゃないかな……」
カヤリは静かな、ひどく大人びた口調で言う。
「力があって、それぞれに正義があって、だから戦うことになっちゃうんじゃない?」
「でも、その正義は間違えていて、だから」
「誰が決めるの?」
カヤリの切り返しに、ヴィーは対応できない。
「あのね、もしね、ヴィーの正義が間違ってるよって、みんなに言われたとしたらさ、ヴィーはすぐに『はいわかりました』って言えるの?」
「あたしの正義が正しいんだから、それを」
「そんなだから喧嘩になるじゃない? でもね、ヴィーがもしいっぱい叩かれて怒られて怒鳴られて。それで耐えられなくなって『わかりました』って言っちゃったとするよ? そしたらさ、ヴィーの正義はみんなの正義と同じものになれるの?」
「それは……」
ヴィーはうつむいた。揺れる水面に自分の顔が歪に浮かんでいる。
「カヤリ、そろそろ上がろう」
「うん」
浴槽から出た二人は、手を繋いで脱衣所に向かった。
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