まったく、不覚を取った。
足を組んでソファに座っているグラヴァードは、苦笑しながらそう言った。窓の外には月のない、凍てついた夜空が広がっている。
「本当にどうなることかと思いました」
薬湯を持ってきたトバースがそう応じる。燭台の灯がトバースの姿をゆらゆらと照らしている。
あの緋陽陣の爆心地にいたグラヴァードは、最大出力での魔法障壁展開が間に合い、なんとか一命を取り留めた。とはいえ、魔法の甲冑は魔力を完全に喪失してしまっていたし、グラヴァード自身の魔力もほとんど枯渇してしまっていた。
「でも、まさかあんな規模の陣魔法に耐えられるなんてっていう気持ちも大きいですけどね」
「耐えはしたが、おかげで今は使い物にならない」
渋い顔で薬湯をすすりながら、グラヴァードは自嘲する。
「なぁ、トバース。この味はなんとかできないのか」
「良薬口に苦し、ですよ」
「不味いにも程がある」
グラヴァードはなおも不満そうな様子だったが、トバースは取り合わなかった。
「グラヴァード様、これから先はどのように」
「そうだな」
グラヴァードは顎に手をやった。
「さしあたり、俺の魔力が回復しないことには何の手も打てない。君一人ではハインツを倒すことは不可能だしな」
「面目ありません」
「いいさ」
薬湯を一息で飲みきり、グラヴァードは深い息を吐いた。
「ハインツは別格だからな。そしてヤツはどうあっても俺たちとは相容れんし、危険すぎる。確実に排除する必要はある」
「グラヴァード様でも簡単には?」
「難しいな」
低い声でそう言って、グラヴァードは腕を組んで目を閉じる。
「あの闇の子だけでも、こちらに保護できないものか」
「難しいものがあります。憑依で接近することはできますが、連れ出すとなると。あの炎使いをどうにかしなければならないだけでも、かなり頭の痛い問題です」
トバースは部屋の片隅に放置されている傷だらけの鎧を眺めながら、そう答えた。
緋陽陣、しかもとびきり強烈に炸裂したあの魔法の余波を受けて、今頃エクタ・プラムは大騒ぎになっているだろうし、さすがに帝都側でも何らかの動きを見せているはずだった。銀の刃連隊だって調査に投入されているかもしれない。トバースとしてはますます動きにくくなってしまっているということだ。
魔狼剣士団の隊員程度であれば憑依は難しくはない。だが、銀の刃連隊級となれば、リスクが跳ね上がる。彼らは一人一人が大魔導級の力を持つ超騎士なのだ。トバースの能力をもってしても、簡単に欺けるような相手ではない。
「俺の魔力の回復にもまだしばらく時間がかかるだろう。今のこのザマでは、武具の補修すらできん」
「今、ハインツに狙われたらどうにもならないということですね」
「そういうことだ」
グラヴァードは目を閉じたまま思案する。
「正直、俺にも反省すべき点は多々ある。自分を過大評価していたと言えなくもない。おかげで今、人生最大の危機に見舞われている」
俺だって魔法がなければただの人だ――グラヴァードは苦笑する。
「その上、おそらくハインツは次なる妖剣テラを用いた陣魔法発動のための準備を進めているだろう。あのレベルの陣魔法が自由自在に撃てるようになってしまったら、それこそギラ騎士団は世界を掌握する。発動媒体が人間である以上、現地にいくらでも送り込めるのだからな」
「であるなら、妖剣テラとの接続装置自体を破壊する必要があると思いますが」
「そうだな」
グラヴァードは立ち上がり、ゆっくりと窓の近くに移動した。大きなガラスに映ったその姿は、控えめに見てもやつれていた。
「今でこそ、大魔導級としか接続できないようだが、遠からず魔導師級とも繋げられるようになるだろうな」
「魔神の片割れである妖剣テラなどと接続して、はたして人間の精神が保てるものなのでしょうか。魔導師では精神を焼き切られるんじゃないかって思うんですが」
「少なくとも現時点、実験は上手くいっている。おそらく微細な出力調整もできるようになってきているはずだ。幼い子どもがあれだけ精確な陣魔法を放てるのだからな」
なるほどとトバースは頷く。
「だとすると、ますます時間との戦いになりますが」
二人は沈黙する。
五分ほどの沈黙の後、グラヴァードが重々しく口を開いた。
「現時点では奴らの実験装置を破壊することは難しい」
「となると」
トバースは壊れた鎧に再び目を遣った。
「あの闇の子を葬れ。そうおっしゃいますか」
「俺にもう少し力が残っていればな」
グラヴァードは呻くように言う。
「ハインツが持っている手駒はさしあたりあの闇の子だけだ。妖剣テラと接続できるという意味ではな。第二の闇の子の情報もない。であれば、まずはあの子を排除するところから始めるべきだろう」
「しかし――」
「一人の犠牲で数万からが救われる。その犠牲を躊躇って数万を失ったとしたなら、それは」
グラヴァードは窓の外、闇の空を見上げている。
「俺にはそこまでの罪は背負えない」
「ですが、あの子に罪は……」
トバースの沈鬱な表情がガラスに反射する。グラヴァードは首を振る。
「罪の所在を問われるなら、それはハインツにあるだろう。あるいは、ギラ騎士団か。だが、今の俺にはハインツを屠る力はない。まして、ギラ騎士団全てを敵に回すような大立ち回りは不可能だ」
「セウェイは使えませんか? あるいは他の……」
トバースは未だ会ったことのない同僚、つまりグラヴァードの部下の名前を出した。
「セウェイか……」
珍しくもグラヴァードは迷っている。セウェイは闇エルフと呼ばれる妖魔の一人だ。かつてグラヴァードがその危機を救ったのをきっかけに、三年に渡って忠誠を誓っているのだが、グラヴァードをしてもその真意を見抜けない人物であった。グラヴァードが圧倒的な力を持っていたからこその忠誠であるのかもしれない。だとしたら、力を減衰させた今、セウェイがグラヴァードに従うか否かは、全く予測不可能だった。
最悪、裏切られる可能性すらある。グラヴァードの首を持っていきさえすれば、アイレス魔導皇国ででもギラ騎士団ででも、相応の地位を与えられることは疑いようもなかったからだ。
「トバース、君はどう思う。一人の少女を救おうというのが命題であるならば、俺や君が危険にさらされる可能性がある。そしてその際にはあの闇の子も救えない。だが、セウェイが俺たちに同調するというのならば、上手く行けばあの子を助けられるかもしれない」
「難しい判断ですが……」
トバースはそう言ったが、答えは半ば決まっていた。
「妖魔とはいえ、闇のエルフは誇り高いと聞いています。人間たちの世界の一時の名声に惑わされることはないのではないでしょうか」
「そうだな」
グラヴァードは頷いた。
「そうだな。君も巻き込まれる可能性があるのは心苦しいが」
少女一人のために生命を賭けてみるのも悪くはないか――グラヴァードは覚悟を決める。
「だがな、トバース。もしセウェイが俺を裏切るような様子を見せたら、確実に闇の子を、カヤリを殺せ。手段は問うな」
「……承知、しました」
有無を言わせぬグラヴァードの言葉に対し、トバースは重々しく頷いた。
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