日はすっかりと落ちた。空は暗い雲に覆われており、地上はまとわりつくような湿気に包まれていた。今すぐにでも雨が降りそうな空模様だ。にも関わらず、歓楽街の方は未だ光と喧騒に包まれていて、まだまだ眠る空気ではない。一方、ケインたちの店舗兼住宅のあるエリアは、すっかりと静寂に沈んでいた。いつもと比べて取り立てて変わった様子はなかった。
「まったくこの季節ときたらさ、本当に毎年うんざりするよな」
雨戸を開けて空を見ていたケインが愚痴る。彼の後ろにあるテーブルでは、アディスが多数の羊皮紙と植物紙を広げていた。羊皮紙はともかく、植物紙はまだまだ高級品だ。アディスは真剣な表情でそれらの書類を整理している。アディスの堅実で正確な仕事が評価され、各種の申請代行の業務もだいぶ軌道に乗ってきた。実はアディスの申請代行の業務については、ディンケル王都の中でも五本指に入る程度には有名であり、時期によってはかなりの順番待ちが生まれるほどだった。宅配業務は一度で入る報酬は大きかったりもするのだが、この申請代行はかなりコンスタントに稼ぐことができる、実に割の良い仕事だった。
「ケイン、あなたもこの仕事覚えてくださいよ」
「えー、書類とかマジ無理」
「せっかく字の読み書きができるのにもったいない。この業務、今の五割増しで受けられたら、僕たちお金には困らなくなるんですよ」
「単価あげればいいじゃん」
「王都の市場価格ってもんがあるんです」
「めんどくさ。んなもん、人を多く雇ってる大手に勝てるわけないじゃん」
ケインは至極もっともなことを口にする。アディスは口をへの字に曲げて、また書類への書き込みを始める。
「仕事にするのはゴメンだけど、字に関することだけはセレ姉に感謝してるんだよなぁ」
「僕が一生懸命教えたのに、ケインは全く覚えようとしませんでしたからね!」
「教え方が悪ぃんだよ」
ケインは窓に背を向けて、アディスを振り返る。アディスは剣呑な目でケインを見上げる。
「セレナのやり方を僕がしたら、きっと喧嘩になってたでしょうよ」
「そりゃ、野郎に殴られたら殴りかえすわな」
「でしょう?」
セレナはケインに文字通り力づくで、読み書きや算術を教えたのだ。
その時、突然雨が降り始めた。それは瞬く間に豪雨となり、雷まで鳴り始めた。
「うへぇ」
ケインは昔から雷が苦手だった。悲鳴を上げるようなことはさすがにないが、本心では布団を頭から被っていたかった。
「こりゃしばらく止まねぇな」
ゴロゴロと鳴り続ける空を見上げてから、ケインは雨戸を閉めた。
「こりゃ寝るに限る」
ケインはそう言ってから、愛用の剣を手に取った。そしてそのまま寝室へと向かおうとする。
それを見ていたかのようなタイミングで、ドアが乱暴に叩かれた。
「誰だ、こんなタイミングで」
ケインは怪訝そうに眉を顰め、剣の感触を確かめた。
「こんな遅くに?」
ケインは慎重に鍵を開け、ほんの僅かにドアを開く。そこには小柄な人物がいた。フードを目深に被っていて、ケインの角度からは顔が全く見えない。
「仕事を依頼したい」
かすれた男の声だった。少なくとも若くはない。
「明日じゃだめなのかい、爺さん」
「魔石の入手を依頼したい」
「……魔石?」
ケインはどうにかして男の顔を見ようとしたが、どういうわけか、どうやっても見えない。表情はおろか、顔立ちすら把握できない。
「アディス、どうする?」
「雨も酷いですから、中に入ってもらいましょう」
アディスは書類を手際よく片付けてから、愛用の杖を手繰り寄せた。彼なりに警戒はしているのだ。
招き入れられた男は、全く濡れていなかった。男はフードを脱ぐこともせず、ただドアの前で立っている。それ以上歩み入るつもりはなさそうだった。ケインは剣をいつでも抜けるような体制を取りながら、視線をアディスに送った。
「それで、あなたはどなたですか」
「私のことなどどうでも良い」
アディスの問いかけに、男は無愛想に応じた。アディスは眉根を寄せる。男のまとう気配の異様さに気が付いたからだ。魔力の流れを一つも感じない。この世界において、およそ全ての生物は大なり小なり魔力を有している。それが気配にもつながるわけだが、この男にはその片鱗も見当たらない。言ってしまえば、生命の気配がしないのだ。
「魔神サブラスの魔石を手に入れてもらいたい」
男は重ねてそう言った。アディスはいつもの椅子に座ると、値踏みするように男を見た。
「魔神サブラスの、という所を見ると、あなたは何らかの情報を入手していると思われるのですが」
「それに俺たち、魔神サブラスがその辺にいるってことくらいしか知らねぇよ? 第一、俺たち二人でどうにかできるってもんでもねぇんだろ?」
アディスとケインに言い募られたが、男は微動だにしない。
「あの錬金術師が情報をもたらすだろう」
「……あなたは何を知っているんですか?」
アディスは杖を握り直した。男はその様子を一瞬見た――ようだったが、ケインたちには確証が持てない。
「私が知ることを開示するわけにはいかぬ」
「変な爺さん……」
ケインの心の声が、思わず漏れ出してしまう。
「それで、あなたは魔石を手に入れて、どうするおつもりなんですか」
「どうもせぬ。ただ、サブラスの力は、どの勢力にも渡してはならない。あれは人間が扱って良い代物ではないのだ」
「では、どうすれば。そもそも僕たちだって、大金を積まれたら――」
「その結果、お前たちは命を失うことになるだろう」
男は言う。ケインはなおもしつこくフードの中の顔を見ようと試みるが、やはり見えない。
「しかし、その魔石を入手してくれたのなら、あるいは魔石自体を永久に封印することができたなら、お前たちには未来が残る」
「それじゃ俺らには選択肢なんてねぇじゃん」
「運命だ」
男は端的に述べた。
「残念ながら、お前たちはすでに、魔神サブラスに目をつけられている。だから、私が来た」
「だからあんた、何なんだよ?」
「どうでも良い話だ。お前たちは、そして王宮も、ギラ騎士団も、みな魔神サブラスに目をつけられてしまった。お前たちはすでに手遅れだった」
「だった?」
「それは良い」
「いや、良かねーだろ」
ケインの鋭い指摘にも、男は全く動じない。
運命――か? アディスは昼間のケインとの会話を思い出す。
――だとしたらさ、それもこれも全部ひっくるめて運命ってやつなんじゃね? 俺たちがシャリーに出会ったのも、サブラスとかいう魔神の話を聞いたのも。だったらさ、いやだのやめろだの言う前に、その運命的な奴の顔くらい見たって、バチはあたらねーんじゃねぇかな?
――その考えすら魔神の掌の上の話かもしれませんよ。
――だとしたら、その掌からはどのみち逃げられねーじゃん。
アディスが考え込んでいる隙に、ケインは男を問い詰める。
「で、俺たちはもうすでに魔神に目をつけられているから、このままいくと、おしまいだと?」
「そういうことだ。魔神の目的は総じて世界の破滅だからな」
「だから、それをなんとかしたかったら魔石をどうこうしろと」
「そういう――」
「ちょっと待ってください」
男を凝視しながら、アディスは二人の会話に割り込んだ。
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