果たしてその行程では、取り立てて何の事件も起きなかった。強いて言えば最短一週間の道程が雨や崖崩れの影響で一ヶ月近くになってしまったことくらいである。料金は割増になり、途中の食料等の補充に余計に金がかかり……と、宅配任務の報酬はあえなく消えてなくなった。シャリーがいたことでさらに出費が嵩んだこともまた事実だった。
「妖魔に襲われたところを、この俺が格好良く返り討ちにする、なんていう夢はよく見らぁな」
王都が見え始めた頃に、ケインは肩を竦めてそう言った。アディスは荷物をまとめながら苦笑する。
「妖魔は基本的に不干渉ですからねぇ。我々がテリトリーに踏み込みでもしない限りは」
「結局一番厄介なのは、同じ人間ってことか」
「盗賊連中はそこら中にいますからね、この国」
「そ、そうなんです?」
シャリーは王都の喧騒を耳にしながら、二人を振り返る。
「どこにだっていますよ、ああいう手合は」
「だから俺たちみたいなやつに宅配を頼むお客さんもいるってわけ」
そんなこんなしているうちに馬車が停まる。王都の中心部、小高い丘の中腹にある大広場だ。白を基調にした街並みと、鮮やかに青い海が一望できる。真夏の陽の光が街のあらゆる所に反射して、目が痛いほどだ。清々しい潮の香りが、夏の空気をゆらゆらと彩っている。大広場を行き交う大勢の人間たちは、押し並べて健康的に日焼けしている。シャリーの褐色の肌も、人々の間に自然に溶け込むほどだった。
「ええっと、あそこに見えるのがエレン神の聖神殿だと思うんですけど、王城はどこですかぁ?」
「お前さんの後ろ」
ケインに言われて、シャリーは振り返る。丘の頂上に白い屋敷が建っていた。
「あれが、お城です?」
もっともらしい感想に、ケインは苦笑し、アディスは渋面になった。
「城壁もないじゃないですかぁ」
「そ。あれが我が国の女王陛下がおわします王城だってことだ。この前の城は要塞の如し、王都の構造もあいまって、難攻不落と評価されてたんだってよ」
「それがどうしてあんな小さなお屋敷に?」
シャリーの素直な問いかけに、ケインは頭を掻いた。
「その時の城は、メレニの指示で海に沈められちまった」
「それももう五十年以上も昔の話なんですけどね」
アディスが溜息をつく。
「メレニの要求を飲んで、街を完全に作り直したんですよ。おかげで今や、攻めるに易く、守りに難しな王都になってしまいました」
「メレニの影響力って、そこまでなんですか」
ディンケル海洋王国がメレニ太陽王国の事実上の属国であるという話は、旅の途上で耳にタコができるほど聞いていた。だが、その最たる物証を突き付けられて、シャリーもさすがに言葉を失った。
「ディンケルはもうエレン聖神殿のおかげでもっているようなものです」
「あっ! そうだ、エレン聖神殿といえば、二年くらい前に聖騎士が誕生しましたよね」
シャリーの言葉に、アディスは頷いた。
「エライザ様が聖騎士に任ぜられ、メレニはようやく内政干渉を控えるようになったんです、表向きは。まぁ、世界中のエレン神殿、信者を敵に回すのは得策じゃありませんからね」
「世界の女性を敵に回すのと同義とも言われますもんね」
シャリーはうんうんと頷く。
エレン神は、唯一の女性の「龍の英雄」である。そのため、女性信者が非常に多く、大陸の全国家に於いて、小さくない影響力を有している。百五十年ぶりに誕生した聖騎士に、世界中のエレン神の信徒が狂喜乱舞し、世界的にお祭り騒ぎが巻き起こったほどだった。エライザをして「クレスティアの降臨」などと騒ぎ立てる信者たちもいた。クレスティアとは、エレン神が人間であったころの名前である。
シャリーはエレン神の信者ではなかったが、その時の騒ぎは記憶に新しい。
その時、ケインがシャリーの前に音もなく移動してきて、スッと身を屈めた。
「ケインさん?」
「しーっ」
人差し指を口にあて、ケインはますます小さくなる。その時――。
「隠れても無駄だ、ケイン」
ハキハキとした女性の声が聞こえたので、シャリーは勢いよく振り返った。そこに立っていたのは、青ベースに黒アクセントの男性用の礼服を身に着けた女性だった。貴族の衣装のように豪奢な装飾が施されていて、その見事さにシャリーは一瞬目を奪われた。その衣装はエレン神の神官の正装の一つだ。女性用のものもあるのだが、なぜかエレン神の神官たちは男性用の衣装を好んで身につける傾向があった。
その神官はブロンドのセミロングを風に揺らしつつ、新緑色の瞳でシャリーを値踏みするように眺め、そしてその後ろに隠れているケインを睨んだ。
「しばらく不在にしていたようだが、また宅配屋の仕事か?」
「宅配屋じゃありません、何でも屋です」
アディスが神官の後ろから抗議した。神官は「ああ?」と凄みを込めて振り返る。
「アディスもいたのか。いつもどおりに影が薄くて気が付かなかった」
「まだ髪は薄くありませんよ、セレナ」
「わたしは体毛の話などしていない」
セレナと呼ばれた神官はフンと鼻を鳴らし、腰に手を当てて胸を反らした。その衣装の装飾の効果もあって、豊かな膨らみが強調されている。
「で、ケイン。いつまでそのガリ子の後ろに隠れているのだ」
「私、ガリ子じゃありませんっ」
シャリーも対抗して胸を張る。セレナと違い、シャリーの胸部は全くの平坦である。
「彼女は三級錬金術師のシャリーです」
「三級?」
アディスが紹介すると、セレナは目を細めた。
「三級というと青だな? こんなガリ子が? それにわたしよりも若いじゃないか、たぶん。それに平らだし」
「た、たいらっ……!?」
驚愕するシャリーに、勝ち誇ったような視線を向けるセレナ。セレナは十九歳であり、シャリーより三つばかり年上だ。
「胸の話は置いといて。このガリ子とお前らの関係は?」
「なんだよ、セレ姉。久しぶりに会ったと思ったら、いきなり尋問かよぉ」
「うるさい、わたしの質問に答えろ」
「ったく、その口の悪さで聖騎士様の筆頭補佐官なんだからびっくりするぜ」
「わたしはお前とはデキが違うのだ」
一層胸を張るセレナ。周囲の人々の視線が、その豊かな胸に注がれる。セレナはケインの言った通り、聖騎士エライザの筆頭補佐官である。神官の立場ながら、王都での知名度は恐ろしく高い。
「で、このガリ子とお前らとの関係はなんだ? 年端もいかないガリ子をどうしようと言うんだ?」
「ちょっ、セレ姉。公衆の面前でなんつー人聞きの悪いことを」
「アディスも意外とむっつりだし、ケインは言わずもがな。おおかた良からぬことを考えて口説き落としたんだろう!? それに三級、青が本当だとすれば金の成る木じゃないか」
「セレ姉のほうがよっぽど邪悪じゃん。それにな、セレ姉。俺にだって選ぶ権利くらいはある」
「あっ! ひどくないですか、それ」
抗議するシャリーに、セレナも「まったくだ」と乗っかった。
「僕はいつでもエライザ様一筋ですからね。年下に興味なんてありません」
「勝手に叶わぬ恋に身を焦がしてろ」
セレナは右手を振りながらそう言った。アディスは「あはは」と笑いながら手近なベンチに腰をおろした。王都に着いたと思ったら、突然疲労が襲ってきたのだ。
「で、ガリ子」
「シャリーです」
「そうか。で、ガリ子はなんでこんなボンクラどもと一緒にいるんだ?」
「ええとですね、お仕事の依頼をしているんです」
「仕事?」
セレナは問い詰めようとしたが、シャリーが右手の人差し指をピンと立てたのを見て言葉を飲み込む。
「ここは人が多すぎます。場所を変えませんか?」
「なら、俺らの店に行こうぜ」
ケインが言うと、セレナも「それがいいな」と同意した。
「だがケイン。わたしがいくら色っぽいとは言え、変な気を起こすなよ。わたしの身体は女神のものだからな」
「けっ、誰がセレ姉になんてムラムラすっかよ」
「うむ、わたしは高嶺の花だからな。分相応でけっこうけっこう!」
「……いっぺん死ねばいいのに」
「ぁん?」
「いーえっ、なんでもありません!」
二人のやり取りに、大広場を行き交う人々が笑っている。囃し立てる声もあった。
「さぁ、わたしは忙しい。さっさと移動するぞ」
「なぁ、セレ姉。なんでタイミングよくここにいたの? 用事があるんじゃ?」
ケインの直球に、セレナは眉を吊り上げる。
「うっ、うるさい。お前らがなかなか帰ってこないから、時々見回りしていただけだ」
「なんだ、俺らに会いたかったんじゃん」
「バカを言うな。お前らはボンクラだから、どこかで野垂れ死んでるんじゃないかと」
「あー、はいはい、そういうことにしときましょー。寂しかったんだろ?」
「ぁぁん?」
四人はそんな風にじゃれ合いながら、ケインとアディスの拠点へと移動した。
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