シャリーの言葉に、サブラスは目尻を吊り上げた。
『ふざけてなど――』
「あなたにとっては、人間の命など、百万人も一人も大差ないはず! あなたは生命の魔神でしょう?」
揺るがぬ口調のシャリーに、サブラスは黙り込む。
「あなたに救われる人もいるはずです。あなたが救える人もいるはずです。ならば、そのほうがよほど!」
『笑止!』
サブラスは哄笑する。
『なにゆえに我が人間ごときを救う必要がある? なにゆえ我が人間ごときに感謝される必要がある?』
「あなたがそれを求めているからです、他ならぬ、あなたが!」
シャリーが語気強く言い切った。
「あなたは高位次元の存在。私たち人間では及びもつかないほどの知性を有しているはずの存在。なのに、私たちの言葉を理解し、あまつさえ、あなたは自分の立場をも理解しようとしている!」
『それは――!』
「さもなくば、何の警告も前兆もなしに、この都を、百万の命を奪っていたはず」
『我はクレスティアとクルースを葬るために――』
「その言葉が真実だとするのなら!」
シャリーはサブラスの言葉を尽く遮断して主張する。
「そうだとするのなら! そんなくだらない争い、私たちの目の届かないところでやってください! 巻き込まれるのは迷惑です、そんな痴れ事に! あなたも、クルースも、クレスティアも! 何をくだらないアピール合戦をしているのですか。立ち位置の見せつけ合いをしているんですか! そんなことのために、私たちを利用しないでほしい。私たちは都合の良い目撃者でも、八百長の立会人でもありません!」
シャリーの舌鋒に貫かれたサブラスは、弾かれたように笑い始めた。
『気に入った! 大いに気に入ったぞ、小娘! 我にそこまでの長口上を叩きつけてきたのは貴様が初めてだ。我に怯えることも竦むこともないその意志の強さ! 我が世界に持ち帰り永遠に愛でてやりたい気分になったわ!』
「お断りします」
『ふっはははは、ははははははは!』
シャリーの反応に、サブラスは心底おかしそうに笑う。
『よかろうよかろう、久しぶりに心から笑わせてもらった礼に、この娘は返そう』
サブラスはそう言うと、今度はクルースを冷然とした目で見た。
『もっとも、この強情な神とやらとは決着をつけねばならぬが』
「……」
クルースは無言で剣を構え直した。その途端、クレスティア――セレナが倒れた。シャリーが慌てて駆け寄って、その身を起こす。
「セレナさん! セレナさん!?」
息をしていない。心臓も動いていない。
シャリーはセレナを横たえるとその胸を何度も強く押し込み、息を吹き込んだ。幾度かそれを繰り返すが、蘇生の兆候はなかった。
「サブラス! これはいったいどういうことですか!」
『魂は返す』
男のものとも女のものとも断定しかねるような声が降ってくる。
『されど肉体はもたなかったようだな。クレスティアの魔力が強すぎたのだ』
「……サブラス、クレスティアに責任を押し付けるな」
クルースが平坦な口調で言った。そこには感情の類はまるで含まれていない。
『我が乗り移った時には、この娘の生命活動はとうに停止しておったわ』
「そんなっ……!」
『その娘はとうに助からなかったのだ、小娘』
「だとしても!」
シャリーはセレナの胸を何度も押し込みながら、怒鳴った。
「私は、私は、絶対に!」
涙が溢れてくる。悲しさと言うよりは、悔しさから来る涙だった。自分への失望が生み出した涙だ。
嗚咽するシャリーの肩に、血まみれの手が置かれた。
「ケインさん?」
「絶対に、諦めんなよ。諦めんじゃねぇぞ」
ケインは貧血で青白い顔をしていたが、傷はほとんど塞がっているようだった。霊薬が最大効果を発揮したということだろう。だが、今もなお、想像を絶する苦痛に苛まれているのは疑いようもない。
「セレ姉、戻ってこい!」
ケインは力の限り叫んだ。そこにまるで嘲笑するかのようなサブラスの声が響く。
『クレスティアを恨むのだなぁ』
「いいえ!」
シャリーは嗚咽を抑え込んで首を振る。
「運命の糸を織り上げたのはあなたでしょう、サブラス。あなたに責任がないとは言わせません!」
『なれば如何するというのか』
「神だか魔神だか知りませんけど、絶対に責任は取ってもらいます」
『その聞き分けのなさも愛でるに値しようぞ』
サブラスがその実態を現した。強いて表現するのならば、赤い渦だ。
『――されど、我には人を蘇らせる力はない。龍の英雄などと呼ばれる連中もまた然り』
「運命に抗うほかにはないのだ」
クルースが言葉を継いだ。
「私もまた、運命の虜囚に過ぎん」
赤い渦の生み出す風に、クルースの青いマントがはためいた。
「くっそ、冗談じゃねぇぞ」
ケインが赤い渦に向けて足を踏み出す。だがそれはアディスによって止められた。ケインはアディスを押しのけようとするが、今は力が入らない。
「神々の遊びみてぇなもんで、セレ姉を殺しやがって! それを運命だと!? 運命ってやつのせいにするって!? ふざけんなよ! こんちくしょうめ!」
荒い息を吐きながら、ケインは剣を抜き放つ。
「ケイン、無茶です!」
「無茶でもお茶でもかまやしねぇ! 一太刀浴びせねぇと気が済まねぇ!」
「やめてください、ケインさん」
シャリーが鋭い声で止めた。
「無駄死には許しませんよ。それに今のあなたには、剣を振るう余力なんてないはずです」
「クソッ」
諦めんじゃねぇぞ、俺!
ケインは膝をついて歯を食いしばる。激痛が思考力を奪う。そして身体は動かなかった。剣を持っている手のひらの感覚さえ曖昧だった。
シャリーはその様子を確かめてから、自分たちを睥睨する赤い渦を見上げた。
「サブラス、あなたは……!」
『……我の負けだ、小娘。クルースとの決着をつける絶好の機会ではあったが。だが、忘れるな、小娘――』
「未来については保証しない、ですか」
『はははは! そういうことだ」
赤い渦が揺れる。
『さて、クルースよ。貴様はどうするつもりだ。我を再び封印すべく、この都を戦禍の地となすか。あるいは我を解き放ち、未来の再戦を待つか』
「魔神は悉皆、封印されなければ――」
「ヴラド・エール!」
シャリーがクルースの前に立ちはだかった。そして誰にも見せたことのないほどの鋭い眼光で睨みつける。
「ひっぱたきますよ、いい加減にしないと!」
「……」
「原則論なんて、私たちにはどうだっていいんです」
「未来の戦に巻き込まれる人々のことは、貴様はどうでもよいと言うのか」
クルースの問いかけに、シャリーは明快に「ええ」と肯定する。
「未来のことは未来の人におまかせします。その人たちが過去の私たちを恨むというのならそれでもいい。現に私は、八百年前にサブラスを殲滅できなかったあなたたちの不手際を恨んでいます」
「それは――」
「今を生きる私たちは、今をこそ確かに生きなければなりません。今をこそ確かなものにしなければなりません。未来を恐れて、今、悔し涙を流すことなんてあってはならない。そんな不確定なもののための自己犠牲を美しいと思う世界なんかを肯定するわけにはいかないんです。違いますか、ヴラド・エール。あなただって、そう考えていた頃があったはずです」
シャリーの強い口調とギラつく視線を受けて、クルースは目を閉じた。
「……わかった。今は剣を引こう」
「ご理解いただき、感謝致します」
シャリーは小さく頭を下げた。
「好きにするが良い――」
クルースはそう言い残すと、姿を消した。
天井の穴から、怒涛のように雨が降り注いできた。
赤い渦もまた、消えていた。
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