ゴーキとチョッカには、その場でおさらばしてもらった。タケコさん的には一緒に乗せてもOKだったようだが、とにかく今は、これ以上の厄介ごとは御免だった。チョッカがどういうパーソナリティかまでは知らなかったが、俺の中の対人センサーは限りなくレッドに近いオレンジ色に点滅している。恐らくゴーキと同じ次元の人間に違いない――僕は今日一日の交流を経てそう判断していた。
運転席は勿論タケコさん。助手席には僕。そして後部座席の真ん中に陣取るのは夏山ルリカである。ポジション的には一番下座に当たるのが僕で、それは酷く象徴的な現実だった。
今日のタケコさんは昨日とはずいぶんと出で立ちが違っていた。白いシャツにレザーのパンツ、同じく黒光りするレザーのジャケット。そして何より気になったのが、左手に装着されているごっつい時計だった。トラックに踏まれても壊れないんじゃないかというような分厚さの腕時計である。
「タケコさん、その時計って、軍隊か何かのモデル?」
「え? いえ、違うわよ。これ、父さんの形見みたいなものなのよ」
「昨日はしてなかったよね」
「昨日のコーディネートにこの時計はいくらなんでもね。でも、バッグの中には入っていたわよ」
「そうなんだ」
昨日のお嬢様然とした印象が抜けず、僕はそのギャップを埋めるのにしばらく苦労した。今日のタケコさんは、一言で言うと格好良い。そのまま戦っちゃったりできるんじゃないかというくらいに、アグレッシヴなスタイルである。昨日の、あの妙な誘惑はいったい何だったんだろうと思わされるほどに、タケコさんは勇壮だった。
そんなことを思っていると、夏山ルリカの声が後ろから飛んできた。
「ええと、タケコさんでしたっけ」
「うん、そう呼んで」
「じゃぁ、タケコさん。タケコさんはショーガツとどういう関係なんです?」
「家庭教師」
タケコさんはハンドルを回しながら短く答えた。それには夏山ルリカは納得しない。
「送迎もやるっていうの?」
「今日は少し物騒だから」
「物騒?」
「そ。だから念のために迎えに来たっていうわけ。大学も今日は講義ないし」
物騒って何だろう? 何か事件でもあったっけ?
「ま、直感みたいなものよ。何もないならそれに越したことはないわけだし」
そこまで言って、タケコさんはアクセルを踏み込んだ。車が急加速し、僕の身体がシートにぎゅうぎゅうと押し付けられる。
「制限速度五十キロだよ、ここ」
「そうね」
タケコさんは周りの車をぐいぐい追い抜いて車線変更を繰り返していく。これには夏山ルリカも何も言えない。その代わりに小さな悲鳴が度々上がる。速度計を見ると百キロ近くまで加速していた。警察に見つかったら一発退場だ。
「どうしたの」
「何でもないわ」
「何でもないでこんな道交法違反とか!」
「だったら何かあるってことよ」
タケコさんはルームミラーにチラチラ視線を飛ばしながら、それでも迷いなく国道三十六号線を爆走していく。僕はサイドミラーで後ろを見る。
「なんだあれ、追っかけてきてる……のか?」
「……見える?」
「なんだろう、でっかいキャンピングカーみたいなの」
「それよ」
タケコさんは信号が黄色の所を強引に右折した。直進車とあわや接触するところだ。だが、タケコさんには全く慌てた素振りもない。事故にならなくて当然――そう言っているようにさえ聞こえる横顔だ。
再びサイドミラーを覗き見るが、そこにはもうあの巨大な車は見えなくなっていた。
「油断できないわね」
タケコさんは息を吐きつつ、ようやくスピードを落とした。
「ななななんなのいまの」
夏山ルリカは僕のシートの背中部分を殴りつける。その声の震え具合からして、きっと両目はぐるぐるになっているに違いない。
「後ろはわたしも見たけど、でっかいキャンピングカーなんていなかったし、そそそそれに事故るところだったじゃない!」
「いたよ、キャンピングカー」
「いなかったわよ!」
僕の言葉をコンマ一秒で否定して、夏山ルリカは再び僕のシートに拳を突き入れてくる。すごく痛い。
「まぁまぁ、お二人さん」
タケコさんがまるで他人事のように言った。
「言ったでしょ、物騒だって」
「物騒も何も、タケコさんの運転だけじゃない、物騒なのは!」
「原因があって結果があるのよ、ルリカちゃん」
「原因はあなたの運転です!」
「いいえ」
タケコさんは短くはっきりと否定する。
「この世界はね、あなたたちの知らないことの方が多いのよ」
「どういうこと?」
僕と夏山ルリカの声が重なった。
「それを教えるわけにはいかないのよ。これは大人の世界の話だから」
「なにそれ」
また僕と夏山ルリカの声が重なる。それを聞いて、タケコさんの目が光る。
「仲が良いのね」
多分に棘を含んだその言い方に、僕は思わず唾を飲んだ。夏山ルリカは「はぁ?」と声を上げている。
「でもま、今のところ脅威は去ったわ。ルリカちゃんの家も分かってるから、そこまで送――」
「ショーガツの家に行きます」
「え?」
「だから、ショーガツの家に行くの」
夏山ルリカは「何を当然な事を言わせるのだ」と言わんばかりに言った。きっと不細工な顔をしているだろう。
「でも今日は家庭教師の――」
「いいじゃない、いても。それとも何? わたしがいたら都合が悪い?」
夏山ルリカの言い分はもっともだと僕は思う。第一、夏山ルリカはまるで別荘でもあるかのように、気楽にウチに遊びに来る間柄だ。いまさら家庭教師が云々でそれを断るというのは、何故だか些か不自然な気がした。
ちっ。
舌打ちが聞こえた、気がする。
「ところでタケコさん」
いたたまれなくなった僕は、とりあえずそう呼びかける。もちろん、その続きは特に考えていない。
タケコさんは僕の方をちらりと見る。その視線が少し怖い。だけど、僕の視線もそれに負けず劣らず鋭いはずだ。大丈夫、睨み合いなら負けない。がんばれ僕。
「いつもあんな運転してるの?」
「いつも? あんな?」
ケロっとした顔でタケコさんは問い返す。それはあまりに自然な言葉で、逆に僕が混乱した。僕は思わず後部座席を振り返る。
「ねぇ、夏山ルリカ」
「え?」
「えっ?」
さっきまで囂々と文句を言っていたハズなのに「何のこと?」と言わんばかりの表情をしていた。二人していつの間にか口裏を合わせて、何かのネタを披露中? いや、そんなはずはない。つい一瞬前まであんなに険悪な雰囲気だった二人が、そんなことが出来るはずもない。第一に初対面だ。
「二人ともどうしちゃったの?」
「何言ってるの、ショーガツ。普通に安全運転だったじゃない」
「え、でもさっき……」
「夢でも見てたんじゃ?」
「いやいやいやいや、起きてたよ」
何故だか背筋がゾクリとした。僕は運転席のタケコさんを見る。タケコさんは穏やかな表情でごく普通にハンドルを握っている。さっきのアグレッシヴさは欠片も見られない。その左手にある不釣り合いなほど大きな腕時計が、鈍く光っている。
「タケコさん、物騒ってどういう意味?」
「物騒?」
タケコさんは「唐突に何を?」と逆に僕に訊いてくる。
「さっき、今日は少し物騒だって」
「そんなこと言った?」
タケコさんは少し表情を険しくする。
ああ、なんだかもうわけがわからないよ。
僕は腕を組んで前を見る。
「あれ?」
「今度は何?」
女性二人の声が揃う。僕は気圧されずに何とか言った。
「あんな立方体な建物、こんな所にあったっけ?」
「立方体?」
夏山ルリカが問い返す。僕は慌ててサイドミラーを覗き込む。
「確かにあったんだけど」
――ない。
不自然なほどに几帳面な立方体の建物が、左側に見えたんだ。
「ショーガツ、あんたちょっと変だよ、今日。どうしたの?」
「いや、うん。よくわからないな」
なんだっけ。そもそも何の話をしていたんだっけ?
僕はまるで転寝から覚めた時のような、思考の爽快感を覚えていた。何か揉めていた気がしないでもないが、そんなことはどうでも良いように思えた。
そんな僕を横目に、二人の美人が会話をしている。
「ルリカちゃんはショーガツくんの家で何をするの? 勉強するの?」
「ううん。スマホで漫画読んでる」
「そう。勉強はしなくていいの?」
「家に帰って一人でするから大丈夫。わたし、人に教えてもらうのが苦手なの」
ん? 夏山ルリカは学習塾に行っていたはずなんだが。
「塾とか、本当は行きたくないんだけどね~。親が心配するからさ」
「ああ、そうか」
そういう理由もあるよな。考えてみれば今まで塾に行ったことのない僕の方が希少種だ。
「自分の家だと気が休まらなくてさぁ」
「え、それ初耳だけど」
「初めて言ったもん」
夏山ルリカはあっけらかんと言う。
「特にお母さんの期待が高くてさー。話するとそれだけでムカついてくるんだよ。だから、塾ない時はショーガツんとこで時間潰してるの」
夏山ルリカは普段はそういう面を全く見せない。でも今日は何故だか素直に感じた。家庭内事情が複雑なのは、うちの母経由で何となく知っていた。大変だなとは思う。
そんなこんなをしている内に、車は僕の家の前に止まった。
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