LC-03-003:アンメモライズド・キス

ロストサイクル・本文

 僕が狙われている?

 さっきの今だ。その可能性があるなとは薄ら思っていたが、いざそれを突き付けられるとさすがに平静ではいられない。

「あなたが見たのは白髪の男でしょう?」
「え、うん」

 そう、白髪の男だった。猫背で、その目は爛々と輝いていた。獲物を前にしたヤマネコのように。

「その男は宝生。二〇〇七年、その男が漸科研に入ってから、また状況は動いた。ACID計画がいったんは最初の路線に戻ったのよ」
「記憶を消すっていう?」
「そう」

 タケコさんは短く肯定する。

「宝生はを持っていたの」
「記憶を消すっていう能力を持っていたって? そんな超能力みたいな……」
「あるのよ」
「でもそれはオカルトだよ。政府の陰謀とかいうのとはワケが違う」
「じゃぁショーガツくんは、C的存在をどう表現するの?」
「そもそもC的存在が何だかも分からないし……」

 僕は腕を組んで机に向き直った。

「アレはあらゆるところに潜んでいる。研究はまだ途上だけど、少しずつ記憶の在処ありかをすり替えていっている。奴らは人間に成り代わろうとしている」
「そんなことしてどうするつもりなの、C的存在ってやつら」
「わからない。でも、確実にその時は近付いてるのよ」

 途方もない話に巻き込まれて、僕は頭を抱えた。

「じゃぁ、僕はどうすればいいの。宝生やらACIDやらに記憶は消される、C的存在とやらに記憶が喰われる。僕はどうすればそれを止められるの」
「私が守るわ」
「タケコさんのことだって忘れてしまうかもしれない。多分だけど、僕はタケコさんのその腕時計、僕はさっきから何度も目にしているはずだ。今まで何度も見てきているはずだ。なのに、僕はそれに気が付いた。そんなはずないよね。だって、そんな不釣り合いなくらいに大きな時計。気付かないはずないよね」

 格好の悪いことに、僕の声は震えていた。タケコさんが立ち上がった気配があり、そしてすぐに僕の背中に温かい体温が伝わってきた。タケコさんが後ろから僕に腕を回してきたからだ。

 その時、僕は胸の奥がかき回されたんじゃないかってくらい、不愉快な感覚を覚えた。タケコさんが家庭教師をしてきた数か月前までの間、僕以外にもこんなことをしてきたんじゃないか――そんな疑念が湧いてきたからだ。いや、でも、タケコさんは別に僕の恋人でも何でもない。ただの家庭教師で。だからそんなことを思うのは全然お門違いなわけで。

「大丈夫だよ、ショーガツくん。あなたが私にとってドストライクだったのは間違いないから。それは本当」

 私も忘れたくないんだよ、君のことを――タケコさんはそう言う。

「私たちの記憶って、消す消されるにかかわりなく、ものすごく繊細で曖昧なモノなの。すぐに歪むし忘れるし、ともすれば美化される。抜けた部分は好きなように都合よく補完される」

 だけどね、と、タケコさんは低い声で続けた。

「それは私たちの中で起きるから美しくもなる。思い出にもなる。でもそこにもし、赤の他人が手を下しているのだとしたら、私は許せない。ACID計画そのものが許せない理由はそこにある」
「でも、C的存在は僕らを――」
「そう、もちろん、あいつらも許せない」

 はっきりと断定するタケコさんの声には、微塵の揺らぎもない。ただ、確信に満ちていた。

「C的存在というものは、きっと長らく人間のそばに潜んでいたんだと思う。それこそ有史以前からいたかもしれない」
「でも、だとしたらどうして今になって脅威になったの?」
「観測したからよ」
「観測? でも、その前から存在していたんだよね?」
「いいえ。観測によって過去が明らかになっただけ。観測によって現在の脅威として認識されただけ」
「じゃぁ、二〇〇一年の時点で観測されていなければ……」
「すべてが後ろ倒しになっていたでしょうね。人間は脅威と認識してしまったら最後、座して見ているという選択肢は消えるモノ。ましてそれが、日本国政府によって認知されたとあってはね」

 それはそうかもしれない。僕はタケコさんに後ろから包まれたまま、溜息を吐いた。

「C的存在って、見えるの?」
「見える」

 タケコさんははっきりと首肯した。

「現にそれは私たちの前に現れている。ただ、記憶に残らないだけ」
「記憶に……」

 僕は唾を飲み込んだ。

「父さんは、C的存在について、一つのキーワードを突き止めた」
「キーワード?」
「そう。っていう」
「みみとや?」

 何だろう、それは。僕は聞いたことのない音に、首を傾げる。その拍子にタケコさんの甘い吐息が耳に掛かる。ゾクっとした。

「それがどうやら、C的存在の総本山のことを示す名前らしいの」
「総本山……ってことは、C的存在はそんなにたくさんいるっていうこと?」
「いる。数とかそういう概念とは違うものかもしれないけど、とにかく一つ二つじゃない」

 タケコさんはようやく僕から身体を離す。柔らかな胸の感触が名残惜しい。甘く優しい香りが遠ざかっていく。

「それに、これは父さんが研究しようとしていたことらしいんだけど。C的存在によって記憶を喰われた人間は、周囲の人間の記憶を書き換えていく。整合性を取るためにね」
「それじゃ、伝染していくって……こと?」
「そうね、そう言えるかも。でも、それは三年前に父さんが消えてしまって、研究自体は止まったまま」
「消えた……?」
「たぶん、殺されたんでしょうね、漸科研に」

 何でもないことであるかのようにタケコさんはそう言った。僕はその非日常的情報の連発に、かなり疲弊してしまっていた。頭がぼんやりしてきて、両目が痛くなってくる。

「大丈夫?」
「うん、疲れただけ」

 僕は大きく熱い息を吐き、そして首を回した。気持ち頭が痛む。

「今日は勉強ナシにしましょ。次の時に今日の分もやるわ」
「うん」

 そうした方が良いだろうと僕の中の冷静な部分は言う。

「私、帰るね。しっかり休んで」
「待って」

 僕は何故かタケコさんを呼び止めている。不安だったのだ。僕自身が不安だったのか、タケコさんが危ないと思ったのか、それは分からないけど、とにかくすごく不安を覚えたのだ。

 タケコさんはにこりと微笑むと、僕を立たせてベッドへと導いた。僕は無抵抗にベッドに転がる。タケコさんはベッドの縁に腰を下ろした。

「タケコさん、もしかしてそのってヤツを探していたりする?」
「……どうだろう」

 ぽそりとしたタケコさんの曖昧な答え。僕は急激に眠気が襲ってくるのを感じながら、なんとか言葉を絞り出す。

「あんまり危ないことしちゃだめだよ」
「わかってる」

 わかってない――僕はぐるぐると回り始めた思考の沼に落ち込んでいく。

「タケコさん」
「なぁに、ショーガツくん」

 僕の左手に柔らかな感触が伝わってくる。

「僕はどうしてACIDだかC的存在だか、そんなのに目を付けられたの?」
「それは、わからない」

 タケコさんは呟くように答える。その声は僕の中でふわふわと反響して、酷く聞き取りにくかった。

「でもそうだとわかったから、私はショーガツくんやルリカちゃんに出会えたし。ああ、でもこれだと、ショーガツくんには何のメリットもないよね」

 タケコさんの声が近付いてくる。僕の額に柔らかな感触が押し付けられる。

「唇はルリカちゃんのためにとっておくわ」

 驚いて目を開けた僕のすぐそばに、タケコさんの美しい顔があった。その艶やかな唇が僕の目の前にあった。その唇が少しだけ震えて見えた。

「タケコさん……僕は」
「メガネ」

 タケコさんは僕の顔からそっと眼鏡を外す。僕は思わず目を閉じた。ただでさえ悪い目つきが、眼鏡を外すといっそう酷くなる。

 しかしタケコさんは、何も言わずに僕の両頬に触れ続けた。それは混乱している僕にはとても有難くて、でも心臓は痛いくらい高鳴った。

「ショーガツくんの目、見てみたいな」

 タケコさんがかすれた声で言った。僕はそれに抗えずに目を開ける。天井灯が眩しくて、僕は眉間に力を入れる。タケコさんが僕の真上にいた。僕らはじっと見つめ合う。女性と見つめ合った事なんて、。焼き付けておかなきゃ――僕は思う。何があっても忘れないように。忘れさせられないように。

「もしショーガツくんが眼鏡かけてなくて、そして私より年上だったら――」
「その仮定に意味ってあるのかな」

 僕は両手でタケコさんの頬に触れた。自分でもそんなことが出来るのかと驚いた。女性の頬になんて、赤ちゃんの頃に母さんに触って以来、十数年ぶりに触ったんじゃないだろうか。すごく柔らかくて、すべすべで、温かい。

「ねぇ、ショーガツくん」

 タケコさんは殊更ゆっくりとした口調で言った。

「やっぱり、キス、しても、いいかな」
「キス……?」

 さっきしたじゃない。とは、言えなかった。僕にだってその言葉の意味が理解できたからだ。

「ルリカちゃんには悪いと思う。でも――」
「夏山ルリカは恋人じゃないけど。でも、僕は」

 何て言えば良い。僕は今、何て言うべきなんだ。どうやっても声が出ない。代わりに僕はタケコさんの首に腕を回していた。タケコさんは小さく声を上げて、そのまま僕の胸に倒れ込んだ。顎の下にタケコさんの髪の毛が当たる。僕は何も言えないまま、タケコさんの背中に手を回した。力を込めて抱き締める。

「ショーガツくん……」

 タケコさんも僕の背中に手を回して、僕らはきつく抱き合った。僕の心臓は今にも破裂しそうだったし、肺ももはや息を吸い込めない程に膨らんでいた。息が吐けず、心音は頭の中を跳ねまわり、でももうこのまま死んでしまってもいいかもしれないというくらい、僕は何か満たされていた。

「ショーガツくんが二十歳になるまでにルリカちゃんと付き合えていなかったら、私と付き合ってくれる?」
「えっと」

 僕の声は自分でもびっくりしてしまうほどにかすれて、低かった。

「ぼ、僕で良いの?」
「たとえ記憶がなんもなくなっちゃっていたとしても、私はショーガツくんを見つけ出す」
「僕の背が伸びていたとしても?」
「だとしてもきっと、小さかったショーガツくんを思い出せるわ」

 こうまで言ってもらえてもなお、僕の中には「本当に僕で良いの?」という疑念が渦巻いている。だって、タケコさんは――多少変態の素質があるかもしれないとしても――とても素敵な人だし、僕なんかを選ばなくても引く手は数多あまたあるはずだからだ。

「僕がコンタクトになっていても、見つけ出せると思う?」
「素顔は見せてもらったもの」

 タケコさんは微笑む。微笑んだのはわかるけど、僕のひどい乱視のせいで、はっきりと像を結べない。まるで記憶が遠くなっていってでもいるかのように、タケコさんのイメージが遠ざかっていく。

「タケコさん」

 僕は胸にタケコさんの重さを感じながら、意識して大きく息を吐きだした。

「キス、してもいい?」

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