目を覚ますと同時に、僕は左肩の激痛に思わず叫んだ。
すぐに年配の看護師さんが駆けつけてきて、僕のバイタルをチェックする。
「春賀正月さん、わかりますか?」
「は、はい」
ひさびさに本名を呼ばれて、一瞬僕は混乱したりしたのだけれど、ともかくもちゃんと回答はできた。
「いててて……」
肩の傷もさることながら、いったいどれほどの間寝ていたのか。全身が痛くてだるい。僕はかすれた声でそう訴えたが、看護師さんは「そりゃそうでしょう」と軽く答えた。
「極度の緊張状態が続いた挙句の負傷となれば、全身の筋肉が限界を超えていたはずよ。いきなり激しい運動をしたようなものよ」
「はぁ」
何となく言わんとしていることは理解できる。病室を見回すと、壁には時計がかかっていた。だが、僕の乱視がフルパワーを発揮しているおかげでよく見えない。
「看護師さん、眼鏡どこですか?」
「ああ、はい。ここにあるわよ」
そう言って、わざわざ装着してくれる。改めて時計を見直すと、二時半を指していた。カーテンの向こうはどうやら夜のようだったから、午前二時半ということになるだろう。
「僕はどのくらい寝ていたんですか」
「半日よ」
「半日か」
それはよかった。浦島太郎にはならずに済みそうだ。
「今お母さんとお姉さんを呼んできますね」
「お姉さん?」
僕には姉なんていない。
だが、その正体はすぐに分かった。一も二もなく母が、そしてタケコさんが飛び込んできたからだ。
母さんはわけのわからない事をいくらか言っていたが、とにかく僕を心配して半狂乱になっていたようだった。肩の刺し傷くらいで大袈裟な――僕はそう思ったが、タケコさんの説明によると、僕が左肩に負ったのは思いのほか大きな怪我で、危うく大動脈をかすめるところだったということだった。もう少し下だったらアウトだったらしい。タケコさんの冷静な説明を聞いて、僕は一層に青ざめた。
「幸いにして大動脈は無傷だったんだけど、場所が場所だからね。神経にも作用するところだったし、いろいろ大変な手術だったのよ。警察の突入が遅かったらどうなっていたことか」
「警察?」
僕は首を傾げた。だが、タケコさんは小さく首を振る。僕はそれで事態を察する。
「そっか」
「そういうこと」
そもそも高校にタケコさんがいること自体、おかしなことなのだ。だから公的には警察がチョッカを制圧したということなのだろう。
「ルリカちゃんにもLINEしておいたから。明日の朝には来てくれるわ、きっと」
「ああ、ありがとう、タケコさん」
「どういたしまして」
タケコさんはやや疲れた顔をしていた。それはそうだ、あれだけの大立ち回りを演じたのだから。それにしても凄い剣術だったなと思う。剣道四段というのも嘘じゃないだろうと思った。戦国時代ででも通用する腕前に違いなかった。
そうこうしている間に、母さんは病室から出て行った。明日また来ると言い残して。いやたぶん、タケコさんが促さなかったら帰らなかったと思うけど。
「タケコさん、さっきはどうしてあのタイミングで?」
「一緒にいた子、覚えてる?」
「還屋……だよね? 一度も見たことないけど、たぶん」
「そうそう、あの子が還屋未来。あの子が私に連絡してきたの。昼休みまでに学校に来いって。昼休みには間に合わなかったんだけど、とにかく車を飛ばして大学から高校に行ったわけ」
「そしたら、僕たちとチョッカがあんなことになっていたと」
「そうそう」
でも――タケコさんは続ける。僕も多分同じ疑問を持った。
「どうして還屋はタケコさんに連絡をしたんだろう。ていうか、できたんだろう」
ろくに面識もない僕がピンチになるからと、タケコさんを呼びつけている。超常的な何かの香りなんてない、という方が無茶苦茶だ。
「ショーガツくんは、還屋さんの顔を思い出せる?」
タケコさんは変なことを訊いてきた。
「私は確かに還屋さんから連絡を受けた。受けたんだけど、どういう手段でいつその連絡を受けたのか、まるで思い出せない。常識的に考えて、スマホに着信。これなんだけど、履歴は残ってない」
僕は唾を飲み込んだ。それに合わせて左肩がズキズキと痛んだ。
「ただ、大学から一直線に高校まで車飛ばしてきて、還屋さんに案内されてショーガツくんの教室に間一髪辿り着いた」
「ああ、そうだ。チョッカは……あいつ、どうなったの」
「私が取り押さえて警察に。今は病院にいるわ」
「怪我したの?」
「ううん。精神科の隔離病棟」
ああ、そうなるだろうな――僕は頷きかけてやめた。左肩が猛烈に痛んだからだ。
「うううう、痛い……」
「無理しないで」
タケコさんが優しい声を掛けてくる。
「タケコさん。還屋さんって、もしかして」
「……でしょうね」
タケコさんは躊躇いがちに肯定した。
C的存在――記憶を喰うモノ。
「ACIDの連中かと思ったけど、あいつらは事件が粗方片付いた後で私にちょっかいをかけてきたわ。締め上げて訊いたところで、還屋さんがあいつらの仲間じゃないことが判明したのよ」
「タケコさん、本当に強いんだね」
「剣道四段、誇れるものはこれだけだけどね」
きっとそれだけじゃないだろう――僕は確信している。じゃなかったら刃物を相手にあんなに冷静に対処することはできない。きっと僕の知らないところで、数知れない実戦を繰り返してきたのだろうと僕は思った。
「でもさタケコさん」
「うん?」
「そうなると、僕らはC的存在の方に助けられたってことになる?」
「そういうことになるわね」
タケコさんは手近な丸椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
「彼女の意図はわからないし、仮にそれが分かったとしても、その記憶は消されるでしょうね。この一件でC的存在が味方だと思うのは早計だけど、でも、ACIDの連中よりはマシということは分かったわ」
「あのさ、もしかして、チョッカはACIDとかいう奴らに?」
「でしょうね」
タケコさんは低い声で肯定した。
「ACIDの中では、記憶を自由に消去できるのは宝生だけ。漸科研の技術だと、そこには大きな副作用が発生するわ。その技術に関しては多分、吹田官房長官時代から変わっていない」
「二〇〇〇年代の頭だったっけ」
「そう、二〇〇四年までね」
タケコさんは言う。僕は「そうだったね」と頷いた。
「ところで副作用って?」
「精神に重篤な影響が残る可能性があるの。社会復帰すら困難なダメージが残る人もいる」
「その副作用に、チョッカはやられたって……?」
「そう考えるのが妥当よ。彼が連れていかれた隔離病棟は、政府機関御用達だし」
「とするとチョッカはどうなるの……?」
「学校で傷害事件を起こした精神異常者のレッテルを貼られて、恐らく一生出てこられないでしょうね」
「そんな……」
僕が怪我をしなければ未遂で済んだかもしれないのに。僕は自分の迂闊さを呪う。
「ショーガツくんは悪くないわよ。悪いのはACIDっていうか漸科研。そしてそんな欠陥手段を黙認するCIROよ」
「ちょっと待って。なんでチョッカがそんな目に遭わなきゃならなかったの?」
「そりゃ、チョッカくんがC的存在に狙われたから、じゃないかしら?」
「でもね、還屋さんの行動を考えたら、なんかおかしいよ」
僕は上手く説明できなくて、幾分かイラっとした。
「還屋さんがC的存在だったとして、だけど。多分、ACIDがどうこうという前に、記憶なんてパクッと行けたと思うんだ。僕を見下ろしていた顔までは思い出せなかったけど、ナイフが飛んできても顔色一つ変えなかった。そこに僕は正直、この世ならざる存在のようなモノを感じたんだ」
「なるほど」
タケコさんは頷いた。
「だとしたら、ショーガツくん。事態はここにきて、私の知ってるものとは変わってきてるのかもしれない」
「どういうこと?」
僕は首を動かす。ズキンと肩が引き裂かれたみたいに痛んで、僕はしばらく悶絶した。そんな僕を支えながら、タケコさんは囁く。
「C的存在は人間の記憶を喰らう。ACIDはそれをさせないために人間の記憶を破壊する。でもね、だとしたら、C的存在は先ずはACIDを喰えば良いということにならない?」
「それは……そうだね」
思えば、C的存在は獲物をどうやって物色しているのだろう。
「手あたり次第じゃないのは確かよ」
タケコさんは僕の心の声を読み取ったかのように言った。僕は目を丸くする。
「ACIDはC的存在にアプローチされた人間を発見して、先回りして破壊する」
「そこが何か、その、違和感」
「そうね」
タケコさんは頷いた。
「でも、これは間違いないわ」
「どうしてそう断言できるの?」
「これよ」
タケコさんはその左手にしていた(ずっとつけていた?)腕時計を見せてくれた。恐ろしくごつい重そうな腕時計で、まるで鋼の装甲板のようにも見えた。
「見た感じはただのでっかい腕時計なんだけど、これは私の父さんが遺してくれた、BOWシステム」
「ボウ?」
「武器を創り出すんだーとか、父さんは言ってたけど、大事なのはそっちじゃない。これには検知能力があるのよ。C的存在にマークされた人間と、ACIDによって記憶をいじくられた人間を見つける能力がね」
「えっ……」
「ごめんね、ショーガツくん。あなたに近付いた理由って、コレ、なんだ」
「どういうこと……?」
僕は眼鏡の位置を右手で直す。少し指が震えていた。
「あなたは……というより、あなたのクラスは、C的存在にマークされていたの」
「僕のクラスが……?」
三十四名全員が?
「私は大学一年の時――父さんが消された時から――ACIDの動きを監視していた。ACIDによって精神に不可逆な傷を負わされた子たちの家庭教師をしながらね。私が家庭教師を始めたのは、私の持つ能力を使うため」
「タケコさんの能力……?」
「宝生とは反対。つまり、破壊の反対、治癒よ」
「治癒……」
「そう。記憶と共に破壊された精神の傷を癒すことが出来る……らしいわ」
「らしいって?」
「母さんがね、そう言っていた。そして現に、私が見ていた子たちは半年から一年程度で社会生活ができる所まで復活したのよ」
「タケコさんのお母さんって……」
「T大学の教授をやってるわ。文学部哲学科だったかしらね」
T大学と言えば日本最高峰の学府である。そこの教授ともなれば、ただものではないだろうと僕は考えた。
「もっとも、母さんはほとんど何も知らない――と、思う。ACIDだの漸科研だのC的存在だのだって、消される前の日に、ぐでんぐでんに酔っぱらった父さんから聞いた話に過ぎないから」
「お父さんは漸科研にいたの?」
「そう。で、ACID計画にしぶとく反対し続けて、しまいに消された」
至極あっさりとそんなことを言うタケコさんだったが、その視線には険しいものがあった。
「どうしてお父さんはACIDに反対したの? 何か策があったの? 黙っていたらC的存在に、この社会は取って代わられちゃうんだよね?」
「それはわからない。ただ、ACIDは研究段階に過ぎないし、さっきも言った通りリスキーだったのよ。だからじゃないかと思う」
何となく釈然としない。僕は腕を組もうとして辞めた。左肩が、ずんと痛んだからだ。いっぺん痛み始めるとややしばらく痛む。点滴か何かで痛み止めが投入されてでもいるのだろうと思うのだが、それでもブッスリやられているのだ。痛くないはずがない。人間、包丁で指切っただけでも大騒ぎするっていうのに。HPの減少はたとえ「1」であったとしても、ごめんこうむりたい。
「でももし、宝生だっけ? あの白髪の人」
「そうよ」
「うん、その宝生って奴が副作用なしに記憶を消せる、C的存在の餌を奪い去ることができるんだとしたら、ある意味それって最適解なんじゃない?」
「記憶を他人にいじくられても?」
「だって、消された本人は勿論、その周囲の人もその記憶が消えるんだよね」
「そ、そうね」
「だったら、実は誰も不幸にならないのではない?」
僕は俯きながら考える。バイタルを示す機械類が定期的に甲高い音を立てたりしているが、これはもう僕には不要なアイテムだった。
「タケコさんの治癒ってのが本当に能力としてあるのなら、それは確かにACIDの中途半端な技術でがっつりやられた人には必要だと思うよ。でも」
「でもね、ショーガツくん。それは人間の敗北を意味するんだよ」
「敗北って言うけど、僕らはその事実に気が付かないんじゃ?」
深夜の病室の中には、他の何の音も聞こえない。僕らの呼吸音と、電子機器の動作音の他には。
「はぁ」
タケコさんは首を振った。
「それはそうなんだけど、でもね、C的存在は――」
「確実に存在している」
突如聞こえたその声に、タケコさんは立ち上がって振り返り、僕は思わず耳を疑った。いつの間にか病室の白いドアが開いていた。ドアの向こうには薄ぼんやりと輝く青黒い廊下が見える。
「漸科研は私たちに追い付いた。私たちに近付き過ぎた」
声だけが響いてくる。タケコさんは左手を僕に向かって伸ばし、僕は右手でその手をしっかり握りしめた。
「彼らの狙いはね――」
少女の声は、密やかに嗤った。
コメント