答え合わせといこう――彼は表情でそう宣言する。その態度に私は確かに苛立ったが、私が文句のひとつも言おうと口を開く前に、男は朗々と厭味たらしく先を続けてしまった。
「常識なんてのは、一般人の能力では説明のつけられない認識の間隙を埋めるために作られた辻褄合わせだ。そうだな、常識なんてものは、お前たちの言うところの神様だの超常現象だのにも似てるな」
「そんなバカな」
「お前はさっきから否定ばっかりだな。あいもかわらず否定しかない人間だ。だが、それはそれでいい。否定が肯定に先んじる、というのはあながち間違いじゃない。周辺の事物を事細かに調べてみれば、感覚の中で肯定されるものなんて、否定されるものに比べれば至極わずかだ。なぜならお前らの基準値なんて、一本の細い線にすぎないんだからな。それに沿ってなければ否定。その細い線に、奇跡的にも接触していれば肯定だ。もっとも、そこまでセンシティヴな人間はそうそういないがな」
彼は混乱する私の事などお構いなしに、言葉を続けていく。
「お前らは誰一人常識人なんかじゃないし、誰一人一般人なんかじゃない。お前とお前の友達に共通点なんて殆どありゃしない。見知らぬ連中と共有する事なんてごくごく些細な線上にしかない」
この男はそもそも商売する気なんてないんだ、と私は思った。脳細胞の活動が停止しそうだった。
「でも、そうだったら社会がやっていけないだろ」
これが私の決死の反撃である。しかし、男はとてもつまらなさそうに、ふん、と息を吐いた。それを見て、私は戦車を相手に拳銃一丁で突撃しているような感覚に陥っってしまった。
「なぁ?」
男は問いかけてくる。
「お前は社会って奴の部品なのか、それとも社会を作る要素なのか? どっちなんだ」
「どっちって……」
「お前の頭では難しいようだな。じゃぁ、お前は社会の一部でしかないのか、それともお前は社会に作用する存在なのか」
「後者でありたいとは思うが、実際は前者じゃないのか」
みんなそうじゃないのか、と私は思った。
「まったく、お前らは骨の髄まで汚染されてやがる」
彼は呆れ果てているようだった。だが、そう言われても、私にはなんともしようがない。
「おいお前。お前らは個性ってのを持ってるんだろう。いいか、個性ってのは個別の性質のことだ。お前たちはたった一人の例外もなく、見た目もばらばら、いわんや中身をや、だ。お前らが共通認識だと思っているような曖昧で軽薄な感覚なんてものは、育ちの違いでいくらでも変わる。自分の社会的立ち位置、欲求、願望、そういったもので簡単にひらひらと姿を変える。感動だの怒りだのっていう一般的には感性だと嘯かれるような奴らだって、何となく寄り集まっただけの多数派にいとも容易に操られるのだから怪しいもんだ。つまり、お前らは誰一人一般的なんかじゃない。たまたま見える共通項を強く認識してしまっているだけの、一時的な接触群体でしかない。一般論だの常識論だのってのは、偶然に目に見えただけの共通項の寄せ集めだ――例えばそういうふうに言えるのであれば、お前らも多少はマシなんだろう。言えるのであれば、な」
思わずつんのめりそうになる言い回しだ。
「ところが違う。お前らがそれぞれに一般とか常識だのと論うモノドモからは、お前ら自身は途轍もなく乖離しているのだ。だが、それがそのままであるならば、お前らは単体としてしか生きられないことになる。これはな、お前らの単体生存能力的には、意味的な死と同義だ。だから、お前らは進化論よろしく可笑しな概念を生み出した。それがお前らの言うところの常識だの一般論だの、そういった都合の良い間隙要素だ。そんなのは虚数と同じで、お前らの脆弱かつ浅薄な定義の隙間を埋めるために捻り出された概念に過ぎないのさ」
頭が痛くなってきた。居心地が悪くて仕方がない。何で俺は、わざわざ真夜中に、この男に説教されなくてはならないのだ。
「よぅく考えてみろ。お前らが常識というもの、とりわけその内容を説明できるものを思い出してみろ。それは常識じゃなくてルールじゃないか? お前らが作ったルールに過ぎないのではないか? そしてそんなものをありがたがって常識だと思い込んでる段階で、俺に言わせればお前らは末期だ。明示されたものをして常識? 常識とはお前らが一般的に言う不文律なんじゃないのか? 自分たちで定義した言葉のクセに、まずその根本から自分たちで逸脱してやがる」
……言われてみればおかしい気がする。しかし、言われてみると改めて言われるまでもないような気さえする。ただ、その疑問が意識に上らなかっただけだ。
私は目が眩んだような気がして、少しよろめいた。視界のあちこちが、銀色の雪でも降っているようにチカチカしている。
男は顔を伏せたが、その口は笑っていたように見えた。
私は何かを言おうとする。しかし、言葉にできない。
そもそも私は、いったい何を言おうとしていたのだっけ。
顔を上げた彼は、片眉を上げた。さっき見たような表情だったが、そんな気がしただけなのかも知れない。どうにも全てがモヤモヤしてしまっていて、なんだか全てが頼りない。
フワフワしている私の前で、彼は頬杖をついている。彼は私を見て目を細めた。メガネのレンズがギラリと光る。
「さぁて。お前は何をしに来たんだっけ?」
「あ……」
私はぽかんと口を開けたまま、何も言えないままの自分を見つめていた。
ゼロゼロシイタグ・終
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