光の瀑布

 海の音は静かに繰り返す。風が蹴立てた痕が白く浮かぶ。岸に叩きつけられた波が砂の凹凸に毛羽立っては、たまらず逃げていく。そんな真夏の昼下がり、海から寄せる大気は何故かとても冷たく、笠矢律子は白い外套の襟にそっと手をやった。裸の手の甲がかじかんで、律子は思わず唇を噛む。

 空はどんよりと曇っていて、まるで律子の胸中を代弁するが如しだった。どうしてこうなってしまったのかと、何度も何度も繰り返した問いを、砕け散る波に向けて投げかける。波は白く尾を引いて逃げ去っていく。太陽の形がくっきりと見える。雲のフィルタのおかげで、普段は見られないその姿を直視できる。不思議な気持ちだった。雲のような手ごたえの無いようなものが、あんなに強烈な太陽光を遮断してしまうのだから。そしてその雲によって、今、律子は守られている。あの忌々しい四発のエンジン音を聞かなくて済むからだ。

 また風が吹く。ウミネコがいている。

「こんな色の海——」

 ちっとも綺麗だとは思わないわ——律子は呟いた。

 それでもこの海は続いていかなくちゃならない。僕は海を守りたいんだ。大事な世界なんだよ、海は、僕にとって。

「あなたはもう」

 いや、それでいいのかもしれない。彼は海を血で汚す仕事に——戦争に行ってしまった。その生死ももはや定かではなく、義父も義母も、彼のことはもう諦めていた。律子たちには、遠い南の海で、彼が乗っていた輸送船が沈められたのだという事だけが知らされていた。

「戦争はもうあかんやろ」

 いつの間にか律子の兄が隣に立っていた。ここまで彼女を——身重の彼女を送ってきてくれた張本人だ。彼は陸軍の将校であったが、左腕一本を引き換えにして地獄から帰ってきたのだ。引き換えと言っても、肘の近くに砲弾の破片を食らっただけで、隻腕というわけではなかった。だが、左手はもうほとんど動かせない。でもいつも「地獄発・内地行の切符にしちゃ、安いもんやったやろ」と寂しそうに笑っていた。

「兄さん」
「なんや」

 律子の兄は関西暮らしが長く、すっかり関西のなまりが染みついていた。おかしな言葉だと律子は思うが、本人も直すに直せないらしい。江戸っ子であることを誇りに思っていたはずなのにねと、律子は幾分冷ややかに兄を見た。

 の彼は、広島の呉で生まれ育った。仕事で東京に出てきて、律子と出会い、結ばれた。だがしかし、結婚生活三年目を待たずして、彼は赤紙に連れ去られてしまった。南の何某なにがしという島へ向かう途中で、潜水艦によって船が沈められてしまったのだ——律子の兄は予想を交えながらもそう言った。呉と言えば、先日、戦艦榛名ハルナが大きな損害を受けながらも最期まで戦い続けた勇姿が、新聞では大々的に報じられていた。二機の爆撃機を撃墜し、乗員の多数を捕虜とし、うち一機の機長だけが今東京にいるとのことだった。忌々しいという思いと、気の毒だという思いが、律子の中になんとなく漂っていた。

 律子は過度な形容詞が舞い踊る新聞の記事を思い出しながら、息を吐く。夏とは思えないほど冷たい空気が、律子の頬をべっとりと撫でていく。凍えた、貼りつくような風は、律子の背筋をぞっとさせた。

「研究者まで戦地に送り込むなんつぅ国は、もうあかん」
「そうね」

 律子は溜息をついた。もうすぐ子どもが生まれる。その後、いったいどうしたらいいのか。どんなふうに生きていけば良いのか。皆目見当がつかなかった。まるでこの曇天のように、律子の心はよどんでいた。

「広島に帰るんか?」
「ええ。今夜。東京は強いわね」

 東京大空襲、忘れもしない三月十日。東京は文字通り焼け野原になった。何万人もの人々が春先の空の下で焼き殺されたのだ。それでも戦争は続き、ついに七月には呉の軍港で停泊していた戦艦たちが軒並みやられた。陸軍の高射砲や航空機はもはや頼ることはできなかったし、海軍の航空機はその多くが特攻の道具と化した。

 どう考えても——誰がどう喧伝けんでんしたところで——不真面目な軍人を兄に持つ律子には、世情はお見通しだった。

 でも、そんなことは律子にはどうでもよかった。彼が生きて帰ってきてくれることを、彼女はただ海に願っていた。たとえ四肢を失っていたって構わない。ただ帰って来てくれればいいと、ひたすらにそれだけを願っていた。この生まれくる子に父親の顔を見せてやりたい、ただその一心だった。だが、身内の誰もが……彼の生存を諦めていた。

「律子、駅まで送ったるさかいな」
「ありがとう、兄さん」

 律子は頷いて、また海に目をやった。この方向、南。どこかに彼はいる。生きていると、律子は確信していた。なぜか、死んでしまった気がしないのだ。兄は律子を車に乗せ、ほとんど右手一本で運転し始める。兄はもともと器用な人だとは思っていたが、それはこんなときにも役に立つものだなと、律子は妙な感心を覚えたりしたものだった。

 大空襲の傷もなかなか癒えない。街の中の至るところに怪我をした人が座り込んでいて、その様はとても文明国のものだとは思えなかった。それでも生きている人は生きていたし、動いている人は動いていた。

 駅中は煙草でぼんやりと煙っていて、ひどく退廃的な香りがした。そこにぽつりぽつりと佇む人たちは、何を考えることもなく、ただ煙草を吹かしている。上等な服を着ている人の姿は皆無で、その中ではっきりとした白の外套を着ている律子は、かなり浮いて見えただろう。

 汽車は間もなく来る。切符の手配は兄がやってくれた。兄は頭が良かったから、左腕の自由を失ってもなお、軍の要職についていた。それは律子にとっては途轍とてつもないたすけとなった。こんな時ほど、軍の役職は役に立つ。こんなに目立つ身なりの律子が面と向かって罵詈讒謗ばりざんぼうの類を浴びせられないのも、傍らにいる佐官の階級章を付けた軍服姿の兄のおかげだ。

「リツ!」

 閑散とした駅に、懐かしい声が響いた。律子は兄を突き飛ばすようにして振り返る。

「タダシさん!?」
「リツ!」

 松葉杖をついた彼が、青白い顔で立っていた。汽車が到着し、慌ただしく乗客を吐き出し、そして津波のようにかきこんでいく。たちまち乗降場は人の波に飲まれていく。彼——笠矢忠司タダシの姿もあっという間に人波に消えた。

「タダシさん!」

 律子は慌てて押し合いし合いする人群れをかき分け、忠司の姿があったところまで辿り着く。

「おおい、律子! 汽車出てしまうぞ! 逃がしたら朝一で広島につかれへん!」
「兄さん、タダシさんがいるのに、なんで広島行かなきゃならないの!」
「見間違いかもしれへんやろ! 第一、なんでしらせの一つもせえへんで、ここでお前にえる? 確率の問題や!」
「だけど!」
「律子、汽車が!」
「明日にする!」

 律子はなおも周りを見回しながら、忠司の姿を探す。だが、あの青白い顔の夫の姿はどこにもない。乗降場は再び閑散とし、汽車が動き始めてしまう。

「タダシさん……」
「な、見間違いやって言うたやろ」
「でも」

 律子は首を振る。自然と涙が頬を伝った。それは昭和二十年、八月五日の夜の出来事だった。後日、律子はその翌日に広島で起きた事を知り、忠司の戦死を確信したのだった。

 そして玉音放送のその日、律子は無事に子を産んだ。その子は広島を襲った光の瀑布ばくふに負けないようにと、光司コウジと名付けられたのだった。

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