ピザとコーラと白昼夢

短編・本文

 キリストが生まれて死んで、それから二千数百年が経った頃。今ではもはやA.D.西暦なんて表現はもう陳腐で、日本国に於ける元号よりもその存在価値を失っていた。誰もA.D.XXXX、などという表現をすることはない。ただ、古典を紐解くのには不可欠だったから、未だ一部界隈ではA.D.なんて記号が使われているだけだ。今年がA.D.何年かだなんてパッと思い出せる人はいない。そこらに流通しているカレンダーには、少なくとも書かれてはいない。そもそもカレンダーを見るなんて行為自体が、僕たちにとっては一種贅沢な時間の使い方だった。なんとなくね。

 二十一世紀に比較して技術は進んだのかというと、実はその辺は限りなく微妙だった。もしかすると二十一世紀に並ぶところまでは回復したのかもしれないし、もしかすると二十二世紀程度にはなっているのかもしれない。どうしてこうもわからないのかというと、世界は完全にばっつりと断絶していたし、僕らの多くにはそれらA.D.の記憶へのアクセス権が与えられていなかったからだ。A.D.の記憶へのアクセス権というのは所謂一つの特権プリヴィレジのようなもので、いわば大学の教授や国会議員にでもならなければ得られない代物だった。それにその記憶にアクセスするためには、物理的に国会図書館まで出向かなくてはならなくて、その強硬手段をとるのには、僕はあまりにも不利な場所に住んでいた。船と馬車で行くにしても、いったい何日かかるのやら。そもそも旅費もないしね。

 それに国会図書館のあるの方では、戦争だか内戦だか、よくわからない殺し合いがまだまだ激しく続いていると聞いている。こっちだって外国の兵隊同士が激しく戦争をしている最中だ。現地人の僕たちは武器も持たず、ただ生きているだけだったけど。なんで他人の国で外国人同士が争っているのか、そしてなんで時々僕らが殴られるのか。時としてバラバラにされたりズタズタにされたりもする。僕の友人のほとんどはちょっと思い出すのもためらうような殺され方をしていてさ。女の子の友だちもそれなりにいたけど、今、生きてる子は一人もいないなぁ。

 ともあれ、僕にはこの状況はどうにも理解できない。でも、これも二十一世紀から続く伝統みたいなものなんだとか、そういう話を先週末に教授——という渾名あだなの友人——から聞いたっけ。

 とにかくそういう事情で、僕たちは——というか世界中の人たちは——情報的にアトランダムに細かく細かく分断されて、極小単位スーパーミニマム共同体コミュニティを作ることになったわけだ。だから多分、二十一世紀の人達が見たら「なにをみんなして好き勝手に」と思う事だろうけど、僕が教授から聞いた限りでは、二十一世紀の人たちの方が、よっぽどよっぽど好き勝手していたんじゃないかなって思ったりするわけだ。

 そのおかげというかなんというか、さっきも言ったみたいに、僕たちの戦争――もとい殺し合い――は終わらずにずっと続いている。惰性的に続いていて、慢性的に殺し合っている。二十一世紀あるいは二十二世紀の頃の兵器なんてとっくに壊れてしまっていて、弾薬と呼ばれるものの補充さえできなくなって数十年だか数百年だか……。教授は——しつこいようだが渾名あだなだ——は、「ようやく人は人に戻った」ということをしばしば言う。その意味は僕にはよくわからなかったけど、とにかく、彼はピザを頬張りながらそう言ってニヤっと笑う。

「ピザにコーラ、その出前を頼める電話。あとはいくらかの与太話と生命の危機。これ以上ないくらいの享楽的スウィーティ刺激的スパイシィな世界だろ、なぁ」
「確かにね」

 僕は炭酸がすっかり抜けてしまっているコーラを飲む。これじゃ黒い砂糖水だ。脳のブドウ糖を補充するためだけに、僕はそれを飲む。何のためにブドウ糖が必要なのか知らないけど、なんか必要なんだって死んだ誰かが言っていた。そんな僕を眺めやりながら、教授はまたピザを口中に押し込む。そしてもごもごと言った。

「生命の危機に直面し続けること何十年か。俺たちはすっかり鈍感になっちまったんだ。あ、そうだ。死ぬってことが怖いかい?」
「わからないなぁ」

 取ってつけたような問いに、僕は取ってつけたように答える。面白みのない問答だったが、それ以上答えようもない。本当に僕たちは鈍感だった。天井にも壁にも夥しい数の空気穴が開いた部屋の中から、僕たちは金属の空を見上げている。そのプレートも穴だらけで、当初の役割はとっくに果たせなくなっていた。青空を覗かせる穴の縁は焼け焦げていたが、それは僕らが生まれるずっと前にできた傷痕だ。この部屋の無数の空気穴と同様にね。

 外からはギャーッともオーッとも聞こえる怒号が聞こえてくる。

「しかし、逃げなくて良かったのかい、教授。ここは間もなく戦場になるっぽいけど」
「なんだい、ここにきてピザの心配かい?」
「食べられなくなるよ、もう」
「ちぇっ、ピザ屋も終わりか」
「ピザ屋も終わったかもしれないけど、それよりももう、ウチの電話がやられてる」

 上げた受話器からは音がしない。僕はそれを放り投げた。ケーブルがくるくると、すすけたラグマットの上をのたうった。ホコリがモフッと吹き上がる。

「やれやれだ」

 教授は肩を竦めて、椅子の座面をくるりと回した。向き直った先には古びたパソコンが置いてある。他にそんな機械は見たことはなかったけど、教授はなぜかそのパソコンとかいう機械をとても大事にしていた。

「こいつももうガタが来てることだし、どっちにしろ、な」

 教授はパソコンの電源を入れる。ブンという音と共に、部屋の中央に何かが映し出される。僕は思わず教授の肩越しにそれを見る。

「人間……?」
「天使だ」
「は?」
「たぶんこいつが――」

 教授は少しもったいぶった。天使がパソコンから出てきたって? そう訊こうとした僕に、教授はなんとなしに胸を張って応えた。

「こいつがな、生きてる最後の天使」
「……生きてる? ああ、いや、それはいいんだけど、それで今これを呼び出して何をするつもり?」

 僕は問う。教授は答える。

「人類をゴルゴダの丘に導くのさ」
「それって」

 処刑場――?

「俺はこいつからいろんなことを教えてもらった。そしてようやく、一つの未来を見出したってわけよ、戦争自動継続システムと化した人間たちに向けるためのな。そろそろいい時期じゃねえかなって」

 壁の外に目をやると、そこには僕らとは違う顔の人間たちが、狂暴に斧や鉈を振るっていた。たちまち通りは赤く彩られる。はすごく久しぶりに見た——僕の胸は新鮮な喜びと興奮に満たされる。

「さぁて、ピザも頼めないこんな世の中にゃ、俺はもう用事はないぜ」
「ちょっと待って、教授。何をするつもりなんだい?」
「見てりゃわかるさ」

 部屋が揺れて、僕はたまらずしりもちをついた。まるで嵐の中のヨットの船室のように——乗ったことも見たこともないけど——、僕らはぐわんぐわんと翻弄される。

『システム起動完了。封印を解除します——』

 流麗な女声ソプラノが聞こえる。眼下には、僕らをぽかんと見上げる外国人の兵士たちがいた。返り血で良い感じに赤くなった彼らを見ても、もうあの感動はなかった。僕はまた、部屋の中央に佇んでいる天使とやらを見る。

「こ、これ、どうするの」
「こうするのさ」

 教授はパソコンのキーボードについている、一番大きなボタンを押した。

「世界中に埋まってる天使こいつの仲間のコアを同時に起爆させる」
「っとすると……?」
「世界がどかんと光に包まれるってことさ。何を隠そう、これが三百年前の人間が描いた夢さ。三百年前は失敗した。だから人類は原始時代に逆戻りしてもなおしぶとくよろしくやってる。けどな、こいつぁ失敗作ってことさ。だから早々にリセットしてやらねぇと、ピザ屋ができるまで時間がかかっちまうって寸法さ」

 教授はまたカタカタとやって、僕を振り返り、そしてそのままの姿勢で何かのボタン――多分あの一番大きなボタン――をカタンと押した。

「光あれ――だ」

 いったいぜんたい、僕は白昼夢レヴェリィでも見ていたのだろうか?

 ――僕の意識はそこで止まる。

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