また捕まえられなかったなぁ——アリスは悔しそうにつぶやいた。アリスは40年もの時間をかけて、間もなく太陽系から抜け出そうという所まで到達していた。地球までの距離はざっと210億キロメートル。地球と太陽の距離の約140倍。地球まで光の速度で約20時間もかかる。
「遠くまで来ちゃったもんだなぁ」
アリスはたったの一人だ。夢にまで見た宇宙に来たのは良いけれど。冥王星軌道を通り過ぎたあたりで、太陽なんてとっくに見えなくなってしまったし、もはや重力のようなものを感じることもない。ただ計算されたルートに従って、時々思い出したように地球に向けてぽつんぽつんと痕跡を発信するそぶりを見せて、ただ暗黒の中を飛翔する。
アリスにとって、宇宙は小さな頃からの夢だった。自由に動くこともできず、話すこともできなかった彼女は、ただ空を見て過ごしていた。特に夜の空が好きで、星の一つ一つが、実はあの忌まわしい太陽と同じようなものだと聞いた時にはとても興奮した。太陽の光はアリスにはあまりに強すぎて、でも、周囲の人にそれを伝える術すらなくて、本当に呪いたくなるような光の源だった。
でも、今やそれすら懐かしい。満天の星々の中に消え去ってしまった太陽はどこかと、アリスはぐるりと意識を巡らせる。アリスは自分がそうなってからというもの、宇宙には実に多くの意識が漂っていることを知った。それは地球由来のものもあれば、他の惑星や衛星由来のもの、あるいはまったく違う銀河系由来のものもあった。というより、地球由来のものは全体のほんの、本当に本当のほんの一部にしか過ぎなかった。でも、今のところアリスが意思を疎通できるのは地球由来のものだけで、だから冒頭の悔しそうなつぶやきがあったわけだ。
誰も彼も、アリスとは全く無関係に泳いでいた。時間や、あるいはメンブレンをも行き来するかのように、出ては消え、消えては出てくる。そのありようは、まるで泡のようだった。アリスが話しかけると、いくらかの意識は応えてくれた。でもその大半は意味の分からない反応で、だからやはり地球由来の意識としか、アリスは話せなかった。
四十年もの時間の中、地球との通信をBGMにして宇宙を漂い、いよいよ地球からの音信が途絶えると、今度はそれら彷徨う意識たちと——時々——戯れた。
「きみもずいぶんボロボロになったよねぇ」
出発当時の輝きはもはやなくて、よくこれで動いているなと感心するばかりだった。アリスがいくら語り掛けても、彼は応えない。応えられるだけのリソースが与えられていないからだ。でもそれでもいいとアリスは思って話しかける。彼はちゃんと聞いている。昔のわたしと同じ、声が出せないだけなのだ。だからこの無音で冷たい空間の中でも寂しくないように、アリスは一生懸命に話しかける。だって、自分がそうされた時、本当に嬉しかったし楽しかったから。
「早く宇宙人に拾われて、綺麗にしてもらえたらいいね。博物館なんかに飾られちゃったりしてさ」
アリスは意識の目をぐるりとまた巡らせる。多くの意識が彼とアリスを興味深げに見つめているのが分かる。姿は時々しか見えないが、意識の数なら地球のトーキョーなんかよりもきっとずっと多いに違いない。宇宙には距離なんてないんだ。意識は——三次元的には——光速を超えているんだから。
そんなアリスたちは全ての距離の尺度がばかばかしくなるような、恒星間空間を泳ぐ。
「寂しいけど」
アリスは彼の進む先を見据える。未来に続く道。地球から見れば、過去へと近づいていく道。そこには無窮の銀河が広がっている。どこを見ても、星があり、暗黒がある。
天地創造の時、神様は言ったらしい——光あれ、と。
センスないなと、アリスは思う。光が、太陽のあの忌々しい輝きが、こんな美しい景色を覆い隠してしまっているのだから。いや、理解はしている。太陽がなければそもそも地球がないことくらいは。だけど、それにしても、どうして人間は闇を恐れたんだろうと、アリスには不思議でならない。眩ささえなければ、空はこれほどまでに明るいのに。直視できないほどの太陽、徹底的に闇を駆逐する地上の光。神様はもしかすると、この景色を独占したくて、人間に闇を恐れさせるために、「光あれ」だなんていうセンスのないことを言ったんじゃないか。そんなことをアリスは思う。
神様というのがどういう意識なのかはわからない。でも、今も目の前を通り過ぎていったように、宇宙は無数の意識で満たされている。それらが何かの気まぐれで結託すれば、多少のことは実現できる気がする。もっとも、それは本当に天文学的に低い確率なんだろうけど。でも生命の誕生という神秘が起きたくらいだから、そのくらいコンマ百桁くらいの偶然があったっていいんじゃないかなと、アリスは考える。頬杖をついてポテトチップスでも食べているくらいに――そんなことはしたことはなかったが——呑気なアリスだったが、なんとなく「この旅は、もうそろそろ終わるんじゃないか」という予感を覚えてもいた。
「ねぇ、きみも疲れたんじゃない?」
センサーもボロボロ、通信機ももうほとんど機能していない。流れるまま、流されるまま、計算通りに未知の海を切り開いていく。だけど、その情報はもう生みの親たちに届くことはない。彼は帰ることのできない片道切符を手に、星界を拓いていく。その旅自体、何の意味も持たない。人間たちの偉業を手助けする、ただそのためだけに彼は静かに飛んでいる。文字通り無音の空間の中を。
「あとはわたしが何とかするよ」
もう大丈夫。
アリスはそっとそう呟く。周囲の意識たちが興味深げにアリスたちを見下ろしている。
「降り注ぐ光の色、か」
恒星たちがこんなにカラーバリエーションを持っていたことには驚きを覚えたりしたものだが、今となっては日常風景だ。感動もあまりない。
「ああ、そういうことか」
アリスは合点した。神様がなぜ「光あれ」なんてダサいことを言ったのか。
「神様は太陽を知らなかったんだ」
あの忌々しい太陽を。美しい星々を近くで見たくて、だから。
あんなことをしでかしたんだ。
そしてアリスは小さく笑ったのだった。
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