決死の憑依術があまりにも呆気なく成功してしまい、トバースは逆に狼狽えた。ハインツが防御を施していない可能性は皆無であり、トバースがその防御を無意識のうちに貫けた可能性と言うのは、それにも増して低かった。
「一人で私を相手にどうしようというのかね、人形師トバース」
上下感覚さえ曖昧な影の世界に、子どもの落書きのような化物たちが踊っている。真鍮の音色が不協和音をがなりたて、空間をどろどろと攪拌している。黒と白の格子模様がランダムに収縮し、視界がチカチカした。
ぐちゃぐちゃと描き殴られた背景、その舞台装置のような何かの真ん中に、黒い全身甲冑を装着したハインツが立っていた。赤いマントが仰々しくはためき、手にした巨大な剣は紫色の焔に邪悪なダンスを踊らせている。
トバースは魔力が底をついていることを感じながらも、その全身を青く輝く鎧で覆う。翳した両手から魔力の蒸気が上がり、刃渡り二メートルを超える大剣が出現した。白い刃はぼんやりと青く輝き、刃を振るうと残像が生じた。
「さて」
こいつを倒せば試合終了――。
トバースはそう呟く。ハインツの精神時間とセウェイの精神時間にどの程度の違いがあるのかは不明だ。だがいずれにせよ一秒でも二秒でも惜しい。速攻で決める必要があった。このハインツを排除できれば、セウェイの精神も解放される。その一方で、もしこれに失敗してしまったら、もはやセウェイも、トバースも……ヴィーも助からない。
「グラヴァードの弟子とは言え、貴様では私を倒すことはできん」
「やってみなくちゃわかんないでしょ、そんなこと!」
二人は同時に動く。殲撃と殲撃が衝突し、落書きの背景が破られていく。ちぎれた二次元的背景の向こうには暗黒があった。星も何も見えない、ただの暗黒――虚無だ。その虚無の中に、闇と同化しそうなほどの黒色で、巨大な目玉が一つ浮かんでいた。それがおそらく、このハインツという男の本質なのだろう。睥睨する瞳、虚無の中の黒。傲慢で不遜な性質だった。
どいつもこいつも歪んでやがるよ――トバースは心の中で苦笑する。表情に出す余力はない。ともすれば魔力に圧殺されかねない。極限の状態に、今、トバースは置かれていた。
「まったく、どうしていつもこうギリギリの戦いになっちゃうんだろうな!」
殲撃が落書きを斬り破いていく。だが、ハインツの黒い鎧には傷もつかない。双方ともにあり得ない長さの獲物を振り回し、魔力と衝撃波をぶつけ合う。剣技そのものでいえば、トバースの方に分があった。だが、ハインツには無限に近い魔力があり、一方のトバースはもはや枯渇している状態である。この精神世界に実体を維持するのも精いっぱいというていたらくである。
活路は――。
魔法を撃たせまいと、トバースは矢継ぎ早の斬撃を浴びせかける。ハインツは魔法を織り交ぜながら、それらを次々と往なしていく。
「烈幻斬!」
トバースの放った魔法によって、巨大な斧が生成される。それは一分の狂いもなくハインツに落ちかかっていく。だが、それは全く無視される。ハインツの身体に触れる前に、斧は霧消してしまう。
「時間はどんどん過ぎていくぞ、トバース」
ハインツが分身する。
「さぁ、どうするつもりだ?」
短距離転移と共に、前後左右から斬り込んでくる。
「ええぃ!」
トバースは足元に衝撃波を放つと、そのまま上方へと転移する。すぐ眼下を魔法の衝撃波が抉っていく。反応が一瞬遅かったら、四方から圧殺されていたところだ。
「ハインツ、諦めろ! お前の自由にはならない!」
ハインツが一人に戻ったところで、その背後に転移して大剣を真横にスイングする。
「諦める?」
胴を薙ぐ一撃を剣を立てて受け止めながら、ハインツは哄笑する。
「なぜ私が諦める必要がある。それは貴様らがすべきことでは? 勝算もなしに」
「お前には正義はない!」
「正義がないだと?」
ハインツは露骨に不愉快そうな表情を見せる。
「私の、そしてギラ騎士団の行為こそ正義。それ以上も、それ以下もない!」
「それを妄言だと言っている!」
剣と剣、魔力と魔力の押し合いが続く。
トバースは歯を食いしばりながら、ハインツを睨み据える。
「ハインツ! そもそもお前の身体はもう存在しない! どうやって――」
「身体? ふん、そんな拘束具など、もとより不要。私はようやく解放されたのだよ、トバース」
「解放だって?」
トバースの大剣がハインツの首筋をかすめる。真空の渦が、鎧に細い傷をつける。
「それならお前はもう、ただの怨霊だ。人間ですらない!」
「なれば結構。私は、そして貴様も、元来の人間の定義を逸脱しているのだからな」
「そんな話はしていない!」
トバースは容赦なく斬り込んで行く。大振り過ぎる大剣をもものともせずに振り回す。だが、ハインツも押されてはいない。
「私は妖剣テラの力を複製することに成功した。もはや媒体は要らぬ。ギラ騎士団は、この力を以て世界を制圧する」
「ふざけたことを!」
全世界での同時多発的テロリズム――ハインツの目的はそれだ。魔神を制御し、紫龍の封印を解き放ち、第二の大災害を引き起こす。
「そのとおりだ、トバース」
心を読んだハインツが称賛する。
「その結果として、人類はひとつ上の領域に移行する。そう、私は人類に福音をもたらすのだ。私こそが人類の革新をもたらす者だ!」
「この狂人め!」
トバースとハインツの撃剣は止まらない。
「誰もそんな進化は求めていないぞ、ハインツ!」
「私が求めているのだよ」
ハインツの目が赤く光る。その赤はトバースが今までに見たどんな色よりも禍々しく歪んだ冒涜的なものだった。ハインツは言う。
「龍の英雄は二つの過ちを犯した」
がん、がん、と、無骨な音を立てて刃と刃が火花を散らす。ハインツは全くもって無表情に、一方のトバースは必死の形相である。
ハインツは鍔迫り合いからの蹴りを放ちつつ、言葉を続ける。
「人々を愚かなるままに創造しなおしたことと、その中に我々無制御を織り交ぜたことだ!」
「それのどこが過ちだって言うんだ!」
「なれば訊こう!」
ハインツは間合いを取り、燃え盛る剣先をトバースの喉元に向ける。
「我ら無制御の存在理由は何だ。我々は何のためにこんな能力を得た。なぜに圧倒的多数の人間どもとは明らかに異なる次元の力を与えられた」
「それは……」
わからない――。
トバースは下唇を思い切り噛んだ。
「我ら無制御はな、人を神の領域に引き上げるために生まれたのだよ、人形師トバース」
「神の領域だって!?」
「そうだ」
ハインツは仰々しく点頭した。対するトバースは目を白黒させている。
「龍の英雄たちは、紫龍を封じ、そして神となった。文字通りにな」
「龍の力があれば神になれる……?」
「察しが良くて助かる」
ハインツは左手をトバースに差し出した。まるで握手を求めるように。
だが、トバースは剣を振るってそれを拒絶する。
「仮にそれが真実だとしても、龍の英雄のように神になることができるとしても、それを人々に強要する理由が理解できない。多くの人々の意志はどうなる。神になれない者もいるだろう」
「神になる素養を持ちながらそれを拒絶するのであれば、黙して死ねばよい。滅べばよい、それだけだ。そして神になる素養のなき者は、存在理由からして虚無なる者。即ち滅ぶべくして滅ぶ者ということだ」
傲然と言い放つハインツに、トバースは数秒間言葉を見失ってしまう。
「人は神に進化する。そのための試金石として、我々は人としての頸木、すなわち制御を外された。故の無制御なのだよ。龍の英雄たちが求めるのは神なる者。彼らをも超える真なる神の出現!」
「な、何を言ってるんだ……?」
トバースは完全に圧倒されていた。その常識モラルを完全に無視しきった言動に、である。しかしハインツは、そんなことにはお構いなく捲し立てる。
「貴様のような若造が理解できぬのも無理はない。私もこの真実に至るまでに三十年以上を費やした。そして、妖剣テラと接続し、魔神ウルテラの意識に接したことで、その疑念は確信へと変わった!」
ハインツは剣の構えを解き、トバースを凝視している。トバースは激しく首を振る。
「魔神ウルテラと繋がって何を得られるって言うんだ! あれは龍の英雄の敵じゃないか! あれが世界の真実を教えてくれるだなんて、そんな話があるもんか! あいつはこの世界に破滅をもたらしたいだけだ!」
「小僧、無理もない。魔神ウルテラは我らを超越した存在。我らよりも神に、紫龍に近い存在。貴様の理解の埒外にあるとて何ら不思議な事ではない。だが、真実は私の語った通り。人は神になるべきなのだ。龍の英雄の遺産によってな!」
「くそったれ!」
トバースは吐き捨てた。
これ以上、この狂人の言葉に耳を貸してはいけない。頭がおかしくなりそうだ。
「そんなのは妄言だと言っている、ハインツ! 人は神に非ず! なんぴともまた、神になどなれない!」
「なれば龍の英雄をいかにして語る!」
再び剣と剣がぶつかり合う。超重量同士が衝突し、お互いを弾く。トバースはその勢いをそのままに、身体を捻って反対側から一撃した。ハインツは魔法障壁でその必殺の一撃を弾き返す。
「龍の英雄が得たのはな、ハインツ!」
トバースはなけなしの魔力で光弾を放つ。あっさりとハインツはそれらを防ぐ。爆炎が散る。
「呪いだ――!」
トバースの追撃がハインツを襲う。
ガンと音を立てて、剣が魔法障壁に食い込んだ。障壁にヒビが入る。さながら割れかけの卵の殻のように。ハインツが舌打ちする。
「龍の英雄たちは、無力な人々を守るために無制御を、僕たちを創ったんだ。人々を神に昇華させるためなんかじゃ、断じて、ない!」
剣を打ち下ろすと同時に、身体を捻ってハインツの側頭部に後ろ回し蹴りを炸裂させる。
「っ!?」
完全なる不意打ちに、ハインツはよろめいて三歩前に出る。トバースはその背中に向けて光弾を連射する。その全ては魔法障壁で弾かれたものの、爆炎が目隠しになる。トバースは短距離転移で振り返ったばかりのハインツの背後に回り、その脳天めがけて剣を打ち下ろした。捨て身の一撃である。
『ははは、神になろうという存在に、そんな攻撃が通じるとでも?』
必殺の一撃は、しかし、暗黒の地面を切り裂いただけに終わった。
ハインツの姿が消えていた。
どこだ……!?
トバースは切り裂かれた落書きたちを注意深く探っていく。だが、どこにもいない。しかし、視線は感じる。とてつもなく凶悪で冷たい視線を。
『神なる闇に飲まれて消えろ。魯鈍なる無制御、神の出来損ないめ』
闇の中の目。闇に溶け込んだ黒色の瞳。
闇一色に陥った世界にたった一つ厳然と存在する、その名状し難い禍々しさを纏うもの。
睥睨する瞳――。
それがトバースを見下ろしていた。トバースがどれほど頑張っても手が届かない領域から。
魔力の奔流がそこにあった。決して埋められない歪んだ魔力の大河が、その瞳を守っていた。
『贖罪と釈明の機会は与えてやったつもりだが、されど、所詮は無駄な慈悲だったということだな』
「くそったれ!」
トバースはありったけの魔力を注ぎ込んで、巨大な槍を生じさせた。だが、その直後に魔力が粉砕されてしまう。
だめか……!
くそっ……!
トバースの身体が闇に侵食され始めた。魔力も切れ、魔法障壁すら張れず、ましてハインツの精神からも脱出できなくなったトバースは、その様子を呆然と見つめていた。
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